スイス生まれの「緑の妖精」と、新緑の丹沢主稜縦走の旅|山とお酒のエトセトラ#05
低山も3000mを越える南北アルプスも、もちろん海外のトレイルだって、季節に合わせたお酒を携えて臨めば山行はもっと楽しくなる。テント泊に小屋泊り、山で過ごす一日をとっておきのものにしてくれるお酒のおはなし。
5月、新緑を肴に、久々に丹沢を歩こうということになった。都心部から気軽にアクセスできる丹沢は、初心者からベテランまで、四季を通じて多くのハイカーで賑わっている。花好きの人にはシロヤシオツツジが咲き乱れる初夏がいいのだろうけれど、山桜と新緑を一度に味わえる春先だって捨てがたい。グリーンシーズン初めの足慣らしにも新緑の丹沢はもってこいである。
神奈川県の屋根ともいわれる丹沢は東西約40km、南北約30kmにも及んでいて、その山裾は意外に広大だ。同じ丹沢でも東側、表丹沢、西丹沢とエリアによってキャラクターが異なるのも特徴的である。
中でも、歩き甲斐があるコースが西丹沢の主稜縦走だ。丹沢最高峰の蛭ヶ岳(1,673m)から西へ進み、山中湖にほど近い三国山に至る尾根は、全長およそ30km。道中には檜洞丸、大室山、菰釣山といった個性的な山々が現れる。この稜線が甲斐(山梨)と相模(神奈川)の境になっていることから地図上では甲相国境尾根と表記されていることも多い。
大倉尾根のある表丹沢や大山や塔ノ岳がある東側に比べると西丹沢は奥まったエリアにあり、思いのほか静かな山歩きを楽しめる。畦ヶ丸より西側はなだらかな斜面が多いが、檜洞丸〜犬越路〜大室山は高低差もあり、ところどころにガレ場も出てきて歩き応えも十分。大室山の頂上付近は東京近郊とは思えない美しいブナ林が広がっているし、水源の山であることから冷たい雪解け水が流れる沢の風景を楽しめる。ちょっとルートを外れるけれど、畦ヶ丸登山道ににある、下棚・本棚という落差のある滝は見どころの一つだ。
今回は西丹沢ビジターセンターをスタートして用木沢の出合いから武田信玄ゆかりの犬越路を経て大室山、加入道山、畦ヶ丸を踏破して畦ヶ丸の避難小屋で一泊。翌朝、大界木山、城ヶ尾山、菰釣山、石保土山、高指山を経て平野までというコースに取ることにした。
道中、避難小屋はあるがとにかく水場が少ないので、炊事用も含めて4リットル強を持参する。加えて、アブサンと携帯用の容器に入れ替えたワインをそれぞれ一本ずつザックに入れた。ということは、飲み物だけで6キロあまり。丹沢を縦走しようと思うと、ついつい荷物が重くなる。なんとかしてうまくマネジメントしたいと思うけれど、なかなかその境地にたどりつけない。
今回の主役のお酒、アブサンは、スイスの山奥の村で生まれたリキュールだ。主原料はニガヨモギ、それにアニスやウイキョウなど種々のハーブを加えた薬草酒で、ハーブ由来の苦味と甘さ、フレッシュな青い香りのハーモニーが特徴だ。アルコール度数は高く、70度を超えるものも少なくない。色は薄い緑色か無色透明。ニガヨモギのギリシャ語読みがアブサンという名前の由来となったといわれるが、「聖女のため息」とか「妖精のささやき」という意味を持つ「Absince」が転じてアブサンと呼ばれるようになった……という説もある。
スイス生まれだが、「緑の妖精」というキャッチコピーで販売されたフランスで人気を博し、ピカソ、ゴッホ、ロートレック、ゴーギャン、詩人のヴェルレーヌ、ランボーといったアーティストから絶大な支持を受けた。一時は社会現象になったというからその影響力が想像できるだろう。
ところが、主原料であるニガヨモギに含まれるツヨンという成分に向精神作用があるとされ、20世紀初頭には多くの国で製造・流通・発売が禁止になってしまった。信ぴょう性はともかく、ゴッホが自分の耳を切り落としたのはアブサンのせいだという話もあって、アブサンは幻聴や幻覚、奇行を引き起こす「悪魔の酒」という誹りを受けてしまった。
そういえば、ヘミングウェイのカクテルとして知られるシャンパンとアブサンを合わせたカクテルの名前は、「Death in the Afternoon」という。 “妖精”、“聖女”、“悪魔”に“死”。こうした枕言葉から伺えるように、飲み手の妄想をからめとるようなリキュールなのだ。
その後、ツヨンの含有量を制限する形で20世紀末〜21世紀あたまにかけて解禁になった。ペルノ社のペルノ・アブサンがよく知られているが、19世紀のレシピをもとに製造されているシャルロット、大のアブサン・マニアで知られるマリリン・マンソンがプロデュースしたマンサンなど、さまざまな銘柄が流通している。アブサンバーや薬草酒専門バーに行けば、世にも珍しいアブサンにもお目にかかれる。
バーではアブサンスプーンとファウンテンという給水器を使っていただく。アブサンを注いだグラスの上にアブサンスプーンを渡し、その上に角砂糖を置く。好みの味になるまでファウンテンの水を一滴ずつドリップする。アブサンに水を加えると白濁するのだが、それをちびちび舐めるのがいい。
こんな風にバーで飲むのもいいけれど、アブサンにオススメなのは間違いなく緑に囲まれたシチュエーションだ。それも、できれば新緑の。頭上には青空が広がり、稜線を吹き抜ける風が身体をクールダウンしてくれる、そんな場所がいい。そしてハーブの香りに包まれてアブサンを一口、また一口。かつてアブサンに溺れたパリのボヘミアンたちは、このリキュールと過ごすカフェでのひと時を「緑の時間」と呼んだけれど、山の中のアブサン・タイムこそ、現代の「緑の時間」と実感する。
バーでは装飾的なスプーンやファウンテンを使ったお作法が面白いが、山で飲む場合はもっとカジュアルに。小さなグラスにそのまま注いでもいいし、ぐっと冷え込んでくる夕暮れ時にはお湯割りも嬉しい。
沢を越えたりまだ開いている桜を探したり、咲き始めていたツツジを眺め、休憩時にアブサンを舐めながら歩いていたら、あっという間に1日目の目的地である畦ヶ丸避難小屋に到着。この小屋に泊まる醍醐味は、なんといっても薪ストーブ!小屋内に薪ストーブがしつらえてあるのだ。日が暮れるとぐんぐん気温が下がるので、ストーブがあるのはありがたい。
冬場にここに来ると枯れ枝が手に入らないのでストーブを使えないのだが、この時期だからか大量の枯れ枝がすでに用意されていた。拾い集めてきた枝と合わせてありがたく使わせていただく。焚き付けに新聞紙を1枚、丸めて入れたら、勢いよく火が回った。ストーブの前で暖をとり、アブサンを飲んだらあっという間に眠くなってしまう。
翌日は朝4時に起きて朝食を作り、荷物をまとめ、小屋の中を掃除して5時に出発。起床時はまだ真っ暗だったが、出る頃には朝焼けが空を染めていた。
畦ヶ丸より西のルートはさらに人の気配が減り、深山のムードが漂う。ヤセた吊り尾根と小さなアップダウンが続くが、前日ほどの高低差はない。畦ヶ丸を出て最初のピークが大界木山。以前、耳にした大界木山の名前の由来を思い出す。この辺りは自然の雑木林が多く、大界木山一帯はケヤキ林になっているのだが、ケヤキがなまってダイカイギになったとかならなかったとか。どう訛ってもケヤキはダイカイギにならないだろ、と思いながら歩を進める。ひたすら西に向かっているので、見晴らしのいいところでは富士山がその姿を見せてくれるのが嬉しいところ。
その先にブナ沢ノ頭乗越の分岐。分岐を北に下るとこのルートで唯一の水場がある。行き20分、帰りは25分、往復でおよそ45分。この行程が面倒で、多めに水を持ってきてしまうが、やっぱりそれが正解だと思う。このルートを歩く方、ぜひ水は多めに。
この先、富士岬平で山中湖抜けの富士山を眺めたら今回の旅ももう終わり。丹沢山塊の西の果ては鉄砲木ノ頭の先、富士山のカルデラまで続くが、平野のバス停方面に下山する。今回は平野で下りてしまったが、次回は三国山から明神峠を経て丹沢湖の南まで戻ってみても面白そうだ。マイナールートを深掘りすれば丹沢はまだまだ別の顔を見せてくれそう……なんて思った、春の小トリップだった。
お酒があれば、山行はもっと楽しくなる!
フリーライター。旅、お酒、アウトドアを主軸にした記事を雑誌やウェブメディアで執筆する。飲み友だちと共に、アウトドア×日本の四季×極上の酒をコンセプトに掲げる酒呑みユニット、SOTONOMOを主宰。現在の遊びは夏場のトレッキングとマウンテンバイク。冬はバックカントリースノーボードと最近始めた雪板、少しだけ雪山登山も。