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伊藤新道プロジェクト

伊藤新道復活プロジェクトの記録2022|父から受け継ぐ意思と景色

2021年より「北アルプスに冒険や発見に満ちた新たなプレイグラウンド」を作る、また「利用者自身が維持管理に参加できる登山道」を目標に立ち上げた伊藤新道復活プロジェクト。行政の助成金やクラウドファンディングによる皆様からの多大なご支援によって、山小屋・登山者・行政が三位一体となった異様な熱感を伴ったムーブメントとなりつつある。

2年目を迎える今年は鉄砲水で損壊した第一吊り橋の補修に始まり、第二吊り橋(旧第三吊り橋)の架橋、第三吊り橋(旧第五吊り橋)の架橋、またガンダム岩へのタラップの設置を行った。この記事はその施工の記録である。

”オリジナル”の伊藤新道とは。断片的な情報から輪郭を描いていく。

高低差を感じない、極快適な登山道

”オリジナル”の伊藤新道を築きあげた伊藤正一(※1)も存命でなく、1957年頃の作道(つくりみち)を知るもの、またそのころ通行した人々の記憶も薄れていっている。

一体”オリジナル”の伊藤新道はどのような道だったのか。

少ない資料と、僅かに残された桟道のアンカーなどを検証するところから始めたことで少しずつ”オリジナル”伊藤新道の輪郭が見えてきた。

どうやら当初は、湯俣川(ゆまたがわ)の水量の増減や鉄砲水を意識して、河川部の大部分で平水時の水面から6、7メートルのところに水平の桟道や登山道があったようだ。また、ゴルジュ(※2)や滝で行き詰った箇所に吊り橋をかけまた対岸に水平歩道が続くという、極快適な道だったようである。

当時の三俣山荘で働いていた古老曰く、「登りは 4 時間、下りは急ぎゃあ 2 時間だったな」というのも、推測が合っていれば頷ける。

(※1)1923-2016年、長野県松本市生まれ。1946年、三俣蓮華小屋(現在の三俣山荘)、水晶小屋を譲り受け、黒部の山賊たちの協力を得て、湯俣山荘、雲ノ平山荘を次々と建設。1956年、三俣山荘と雲ノ平山荘へのルート『伊藤新道』が完成。黒部源流の美しさに見せられた伊藤さんの「雲の平の絶景を見せたい」という想いで作られた。

(※2)切り立った岩壁にはさまれた深い谷(峡谷)のこと

謎が深まる65年前の工法

”オリジナル”伊藤新道の工法について、今回の架橋工事に携わった河東工業の職人たちと一体当時はどのようにしていたのか幾度となく話題になった。今のテクノロジーや機材をもってしても難易度が高い伊藤新道の工事。クライミング技術の必要な個所へのアンカーの打ち込み、ケミカルアンカーのない時代に何で固定していたのかなど謎は深まるばかりであった。
ある職人は「アンカーの固定なんか膠(にかわ)しかなかったんじゃないかなぁ」と言う。膠とは鹿や動物の軟骨で出来た古来の接着剤である。


それにしても、現代では特にこの10年で急激に進化したリチウムイオン電池による軽量な電動工具の発展、ケミカルアンカーという強固な接着剤、軽量な発電機、また現地への物資のヘリによる投下などで、工期もコストもリスクも十分の一程度ではないだろうか。

2022年再び架かる第二吊り橋

位置・素材を見直して挑む第二吊り橋の施工

第二吊り橋は南真砂岳(みなみまさごだけ)を源頭とする唐谷と湯俣川が出合った直後のゴルジュになったところにある。以前から「引き返す勇気を、雨天の時」という赤いペンキによる表記が有名であったとおり、急な豪雨のときなど4mほどの増水が想定される。これは周囲の岩の色の変わっている部分からも推測できる。


ここで1962年に実業之日本社から刊行された「北アルプスの秘境 雲ノ平 伊藤正一著」より、伊藤新道の増水に関する記述があるのでご紹介したいと思う。

「一ノ沢を過ぎたころ、突然雨が降り出したので、進もうか引き返そうかと思っているうちに、川は増水して進むことも戻ることもできなくなってしまい、とうとうビバークしなくてはならなくなってしまった。川の流れは恐ろしいまでに荒れ狂い、夜になると水の中で巨岩がぶつかって火花を散らし、そのためか火薬臭い匂いがしていた。どこかで山抜けがしているのであろう、得体のしれない地響きは終夜続いた。」

我々は8月17日に鉄砲水により4m増水し第一吊り橋が損壊したことを踏まえ、予定よりも1m高い位置に架橋することとした。また、湯俣川全般に浮遊する硫化水素を意識し、出来る限りの部材をステンレス、それ以外をどぶ付けメッキ(亜鉛メッキ、錆びない)とした。
よって吊り橋はメタリックだ。ギラギラしている。

天気と登山道工事の外せない関係

まず最低限の条件として、現地までそこそこ厳しい渡渉が3カ所はあるため職人が現地にたどり着ける水量でなければならず、また3日間は晴れが続かないと、この時期の寒さで仕事にならない可能性もある。
施工は2度ほどのリスケジュールを乗り越え10月1日~3日の三日間で行われた。

このような難所での施工は、天気との駆け引きになる。

思考と技術はあくまでアナログ。吊り橋を作る職人

施工した河東工業は、善光寺の補修時に30mもある屋根に足場をかけたり、はたまた米子不動で同じく吊り橋をかけたりの、特殊な仕事をする鳶の集団で、出てくるアイデアからフットワークの軽さまで、次々に飛び出すあくまでアナログな思考と技術は伊藤新道黎明期の粋な職人たちを連想させた。

社長の若林氏は「結局70年前と同じことやってるんだよな」と仰っていたが、山小屋を運営する我々もまた同じく、ある部分で自然相手の生業というのはそういうものなのであろう。

伊藤新道の影

しかし、この場所は伊藤新道の道中でも特異な場所で、この時期右岸側の吊り橋のアンカー部などは一日中陽の光が当たらず、また切り立ったゴルジュ地形のため暗さと、深山幽谷を感じる「伊藤新道の影」のようなところだ。
その様子は写真を担当した井上実花の画像にも刻まれているであろう。

湯俣川、夜の野営

こういった世にも稀な難所での野外工事がただ厳しいものであるか。それいうこともない。
夜になると、歩荷やガイドを担当したマウンテンワークスの作ったベースキャンプのタープの下で、よくわからない即席料理と安酒で、様々な職種、メディアの人間の体験談や冗談に花が咲くのである。
私にとってはこれが山の仕事の醍醐味だ。

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