伝説のスキーヤーが愛した山小屋、名建築の宿『黒沢池ヒュッテ』
日本人で初めてモンブラン北壁山頂からの滑降に成功したスキーヤーをご存知ですか?
冒険家・三浦雄一郎さんと双璧を成すプロスキーヤーとして、1960年代から日本のスキー界をけん引してきたその人の名は、植木毅(つよし)さん。伝説のスキーヤーはまた、山小屋のオーナーでもありました。
日本百名山・妙高山の麓に建つ「黒沢池ヒュッテ」のストーリーです。
オーナーは日本初のプロスキーヤー
妙高戸隠連山国立公園内に位置する黒沢池ヒュッテは、日本百名山の妙高山と、火打山のピークハンターにとって、重要な登山拠点。初日に妙高山に登ってヒュッテに泊まり、翌朝荷物をデポして火打山を目指すコースが人気です。
この山小屋のオーナーは、日本の山岳スキーの先駆けで、日本アルペンスキー学校校長の植木毅さん(82歳)。
と言っても、ご存知ない人が多い(わたしもその一人でした)と思うので、簡単に経歴をご紹介しましょう。
妙高市出身の植木さんは、1964年に全日本スキー連盟(SAJ)の初代デモンストレーターに選ばれた人。1965年にはプロスキーヤーに転向し、鳥も通わぬと言われた北穂高岳滝谷C沢の初滑降(1967年)、日本人初のヨーロッパ最高峰モンブラン北壁山頂からの滑降(1968年)、さらに1970年には世界初のアラスカマッキンレースキー登山と滑降に成功。その偉業の数々は、まさに“伝説”と呼ぶにふさわしいスキーヤーなのです。
型にはまった綺麗なだけのスキーではなく、どんな雪、どんな斜面にも通用する実践的なスキーを教え、その先見性は当時の日本スキー界で異端視されることもあったほど。また、スキー技術の指導だけでなく、世界各国へのトレッキングやスキーツアーも企画。スキーを通し、日本と海外の中学生の交流を深めるなど多方面で活躍されてきました。
一方、黒沢池ヒュッテでは、残雪の5月に火打山のスキーツアーを開催するなど、お客さんと一緒になって妙高の自然を楽しむことに夢中だったという植木さん。6年前に体調を崩し、現在は療養中ですが、黒沢池ヒュッテに置かれた植木さんの写真や著書、古いスキー板などが、その存在の偉大さを物語っています。
ル・コルビジェの弟子が設計した山小屋
そんな植木さんが”宝物”と誇った黒沢池ヒュッテは、どんな山小屋なのでしょうか?
青いドーム型の屋根が、建物をすっぽりと覆っている外観は、まさに”きのこ”。内部は、1階が食堂、2階・3階が客室になっています。
そもそも、植木さんが、かねてから親交の深かった涸沢ヒュッテのオーナー小林銀一氏に「妙高にもいい山小屋が欲しい」と言って建設に至った(後に譲渡してもらった)というこの山小屋。設計を担当したのは、ル・コルビジェの弟子で、日本近代建築の礎を築いた建築家の一人、吉阪隆正氏。冬場の3メートル近い雪圧に耐えるようにと、8本の丸太柱を軸として、1階部分は石垣(コンクリート)で頑丈に保護し、その上にドーム型の屋根を乗せる構造で設計されました。
しかし、建ってみると建築家も予想しなかった展開に。
さて、出来上がって驚いたことには、予期に反して、この建物の周囲にはさっぱり雪がつもらないことだ。ちょうど風の中の一本杉の根元を風が吹き回し、雪がえぐり取られるのと同じ現象が生じたのである。雪掘りをしなくてもいつでもこの小屋に出入りできるのである。 出典/吉阪隆正集 第14巻『山岳・雪氷・建築』勁草書房
8本の丸太柱が幹に、八角系のドームが枝葉となって、その下に雪が積もることを防いでくれたということです。
柱の内側にある階段から2階、3階へと上がっていくと、そのユニークな構造の全貌が見えてきました。
こちらは、3階の客室。八角形の各辺には明かり取り用の小さな窓があり、晴れていれば星空を眺めながら寝ることができます。
ちなみに、吉阪隆正氏はスイスのアルプスに登るほどの登山家で、日本山岳会理事も務めたという異色の建築家。国内では涸沢ヒュッテをはじめ多くの山小屋を建築していますが、四角くない形を使った建築は、この黒沢池ヒュッテが第一号だそうです。
オーナーの想いをつなぐ
こうして、建設から50年以上の月日を経た今も、多くの登山客の拠り所となっている黒沢池ヒュッテ。オーナーが山に上れなくなった6年前からは、植木さんのスキー学校とスキーロッヂ(ナガサキロッヂ)のスタッフを中心に小屋が守られています。
「オーナーが倒れて、にっちもさっちも行かない状態で、気がついたら山に上ってました」
と話してくれたのは、管理人の篠原一久さん。
篠原さんは、もともとスキーのコーチとして植木さんの元で働いていました。山小屋の管理はもちろん、登山経験もほとんどなかったものの、オーナーが病床で自分の名前を呼んでくれた時に、胸にこみ上げるものがあったと言います。
「こうやってオーナーがいない中でやっていると、ものすごく責任を感じて、余計なことやってるんじゃないかと思うこともあります。けれど、わたしたちはオーナーに対して恩というか義理人情を持っていて、やり遂げなきゃいけないという気持ちが根底にあるので、それが支えになっていますね」
現在、繁忙期以外の小屋番は2人体制ですが、物資の補給が必要になれば、スキー学校のスタッフや黒沢池ヒュッテをよく知る人たちが都合をつけて歩荷をしてくれたり、老朽化した靴置き小屋を修復しようと、毎週末大工をしに上がって来る小屋番OBもいるそう。
「ここも、スキー学校も、誰かが支えて、なんとなく保っているんですよ」と篠原さんは笑いました。
また、植木さんが他の山小屋にはない朝食を出そうと考案したスイス仕込みの“クレープ”は、その焼き方も含め、黒沢池ヒュッテの名物としてしっかりと引き継がれています。
竹の子や山菜とりに目を輝かせ山をかけまわり、少年のようだったという植木さん。世界の雪山を滑り尽くした植木さんにとって、一番心が落ち着く場所は、やはり故郷・妙高の自然。そこに山小屋を持ち、多くの人を招き入れ、山の恵みを分かち合うことは、最高の愉しみだったことでしょう。
世紀の建築家が建て、伝説のスキーヤーが育てたこの山小屋は、今も植木さんを慕う人々によって守られています。
長く厳しい冬の後には、歓びの春が来るように、きっと黒沢池ヒュッテにも、植木さんの想いを継ぐ新たな担い手が現れることでしょう。にょっきりと顔を出したきのこ型の屋根が、「まだまだこれから」と、微笑んでいるようでした。
(写真:and craft 臼井亮哉)
<住所>
新潟県妙高市大字関山字妙高山国有林
<TEL>
0255-86-5333(事務所)※事前予約が必要
<宿泊概要>
参考価格:
【1泊2食付】9,500円
【素泊まり】6,500円
※カード利用 不可
定員・収容人数:100人
テント設営数:10
営業期間:7月1日〜10月中旬
信州を拠点に山と暮らす人々のなりわいと温もりを伝えます。
野鳥好きな両親の影響で、幼い頃から奥多摩や秩父の野山で遊び、大学時代は、北アルプスの山々を眺められる松本市で、山登りの楽しみを覚える。出版社、編集プロダクション、観光協会勤務などを経て、ライター・編集業を生業に。
現在は、長野市戸隠在住。二児の母として、今後は親子で登山が楽しみ。