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世界も認める乗鞍。その理想の自然郷ができるまで。|乗鞍岳物語(後編)“乗鞍の神” 上平尚さん

「乗鞍と言えば上平さん」
「上平さんは乗鞍の歴史」
「上平さんの名前を出せばそれが通行手形になる」
「上平さん? 乗鞍の神」

……

取材前、編集部が耳にした上平さんの噂です。

その上平さん、乗鞍山麓パトロール隊の救助訓練、警察の錚々たる面々が集まる場の冒頭挨拶でこう言ったのだそうです。

「知恵を出せ、出せないなら、汗をかけ、かけないなら、ここから去ってくれ。」

取材をはじめて数分で、そんな言葉を上平さんから聞き、編集部の面々はどんなに怖い人なのか、と震え上がりました。

お話をうかがった“乗鞍の神” 上平尚さん
お話をうかがった“乗鞍の神” 上平尚さん

「そしたら、警察署長から言われました。『上平さんは幸せですね。言いたいことが言えて。今、そんなこと僕が言ったらパワハラだって問題になるんですよ。』ってね(笑)」

厳しい言葉と裏腹にやわらかい表情。酸いも甘いも知る上平さんに、乗鞍岳と人々との歴史、そしてその魅力をうかがってきました。

手を挙げ続け、乗鞍にささげた半生

上平さんは戦前、乗鞍岳の麓、岐阜県丹生川(にゅうかわ)村で生まれました。父親は旧日本軍の施設、乗鞍航空実験場で働いていましたが、上平さんが三歳の頃に戦死。戦後の食糧難の時代、4人の兄弟と母親とお婆さんだけで生きていくのは大変でした。上平さんは口減らしのため、東京の叔母さんの所へ出されます。

「ま、そんな経験もね。人生の中では宝物になりました。」

きっと一言では片付けられない大変な思いをされていたのでしょう。それでも、さらっとこう言えるところに上平さんの人格がうかがえます。

20代後半、乗鞍岳に帰ってきた上平さんは地元の青年たちと、ほおのき平スキー場をオープンさせます。その後も人との出会いの中、そこら中で自ら手をあげ、地元のために動き続ける上平さん。

国際スキーパトロール連盟、乗鞍山麓パトロール隊の設立、メンバーの養成、自然体験活動指導者の養成。被災地での救援活動。乗鞍岳周辺の自治体を巻き込んだ東京ドームでの地域PR活動、その名も「トマトナイター」、旅番組へのロケ地の紹介。

知恵を出し、汗をかき、きちんと責任を取りながらコトを成していきます。そんな上平さんのところには、数々の相談が舞い込みました。

乗鞍岳の冬のパトロールの様子
乗鞍岳の冬のパトロールの様子

「あいつに頼めば、なんとかしてくれるってなっちゃってね。」

「いいことも悪いことも乗鞍岳と一緒に経験してきましたから。愛着があるもんで、長くやっているだけですね。」

上平さんはあくまでも謙遜するのでした。

たくましい人々の歴史が詰まった、乗鞍岳の道

「乗鞍岳は、もともと信仰の山ですから、麓の丹生川村にはたくさんの人が訪れていました。たとえば、村の旗鉾に慈雲寺ってお寺がありましてね。そこはちゃくれん寺って呼ばれていたんですよ。たくさん人が来すぎてお湯をわかすのが間に合わないから、お茶が出せないわけ。お茶もくれんってことで、茶くれん寺、茶くれん寺って呼ばれていました。」

戦前はそんなエピソードが生まれるほどに、人々に親しまれていた乗鞍岳。山頂奥宮への参道も長野側に3本。岐阜側に8~9本もあったそうです。さらに大正が終わる間際、丹生川村の青年団が2年かけて平湯から山頂まで道を作りました。

「戦時中、旧日本軍が航空試験場を作ろうとしていました。そのための調査が始まり、富士山、立山、八ヶ岳など、乗鞍岳を含め高い山は全部候補になっていました。標高2,500m以上で大きな建物が建てられる場所を探していたのです。」

その中で乗鞍岳が選ばれたのは、道がよかったから。丹生川村の青年団が作った道は、最も楽に上まで行けました。その道を使って旧日本軍が今のスカイラインの元となる自動車道路へと拡張したのです。

「敗戦後の昭和23年。軍が作った道路で乗鞍岳にバスがあがれるように、当時の濃飛バスの社長がなんとかして修復したんです。戦争で荒んだ国民の気持ちを癒す場所にしようと。その道を、いま皆さんは使っているんですよ」

乗鞍岳のスカイラインは元々観光用に作られた新しい道路かと思いこんでいた編集部。一本の道路にこんなに深い人の歴史があったことに驚きを隠せませんでした。

上平さんに見せて頂いた貴重な乗鞍岳の資料
上平さんに見せて頂いた貴重な乗鞍岳の資料

世界も認める「美しい山」へ

―乗鞍岳のすごさ、魅力はなんですか?

「乗鞍岳の紅葉は、カラフルで本当に素晴らしい。垂直分布がはっきりわかります。丘陵帯から山地帯から亜高山帯から高山帯まで、紅葉が長い間楽しめるんですよね。

それと気候帯でいうと、寒地帯、亜寒地帯をカバーしています。寒地帯といえばカナディアン・ロッキーで立派な六輪駆動の車で、お金を出して入っていく場所と同じようなところですからね。そんなところに一番、手軽に登れる。他の山だと2,700mに行くまでに山小屋に泊まらなきゃいけないけど、乗鞍岳は2,702mまでバスであがれますから。前日に奥飛騨温泉に泊まってゆっくりしても日帰りで山頂に行ける。」

「あとは、やっぱり、美しさですね。匂いがない。」

―匂い?

「以前は、乗鞍岳もダメになりかけた時があったんですよ。マイカー規制前、どんどんどんどん車がたくさん入った時です。匂い、汚れがひどかった。災害もそう、農業にも赤信号が出たんです。このことを問題視して、3~4代続けて村長の公約が『農業と観光の調和ある村づくり』になったんですが、これは僕の誇りでもあります。丹生川村全員で自然を守ろうって発起した。自然が汚れ過ぎたら元も子もなくなる、自分たちの生きる場所がダメになるってね。」

2003年、乗鞍スカイラインはマイカー規制をはじめます。それまでは自由に自家用車が入れましたが、指定のバス等の車両しか入れなくなりました。

規制前のスカイラインの利用者数は推計約42万人、約10万台が入っていました。規制後は約1万台。車両が大幅に減った結果、乗鞍岳の自然はみるみる回復していきます。

「それはもう、今は環境意識の高いフランスやカナダの人がいつも褒めてくれる程の美しさですよ。欧米の人はよく自然にはキャパシティがあると言うんです。マイカー規制によってそのキャパシティが守れたから自然が復活したんだと思います。」

取材時、乗鞍岳には希少なはずのコマクサがたくさん咲いていました。
取材時、乗鞍岳には希少なはずのコマクサがたくさん咲いていました。

乗鞍が生んだ水の森「五色ヶ原」

そんな、美しさを取り戻した乗鞍岳の山麓には「五色ヶ原」と呼ばれる森があります。東京ドーム600個分の広大さ。15年前の乗鞍の生態系調査で再発見され、3年の歳月をかけ上平さんたちは登山道を整備し、OPENしました。そこでは乗鞍岳が溜め込んだ水が噴出している滝をたくさん見ることができます。

「365日の水分を乗鞍岳が溜め込んでるってことなんですよ。だから丹生川村にはダムが一つもないんです。フランス・カナダからも乗鞍の水・光・風が素晴らしいと評価されているんですが、それが五色ヶ原では存分に感じられるはずですよ。」

五色ヶ原は許可を得た案内人とでなければ入れない、特別な森。1日の入山人数も制限し自然利用のキャパシティを守っています。案内する際も各グループの間隔を十分にあけて、存分に自然だけを感じられるようにしているとのこと。あの、もののけの森で有名な屋久島の環境保護のあり方のお手本にもなっている運営方法です。

今回、特別に上平さんに五色ヶ原を案内していただくことになりました。御年77才の上平さん。雨上がりの悪い道も軽やかに歩きます。編集部の面々もついていくのがやっと。

ご案内いただいたのは布引の滝。乗鞍岳のスポンジ状の溶岩の中を何年も通ってきた伏流水が、地表に出ると同時に吹き出し、滝となって美しい数多の白糸を垂らしています。

ずっと乗鞍岳の自然と共に生きてきた上平さん。この森、山の成り立ち、草花の一つ一つ、丁寧に愛おしそうに解説してくださいます。

もちろん入るだけで素晴らしい森なのは誰しもわかるのですが、上平さんの解説が加わると白黒の絵がカラーに、はたまた立体になるように実感をもって生き生きと森の素晴らしさを感じさせてくれるのです。

「五色ヶ原をお願いします」

取材を終え、東京に戻ろうと車に乗り込むとき、上平さんの口から出た言葉です。

乗鞍岳の大自然と共に失敗や成功を繰り返しながら懸命に生きてきた上平さん。ご自身が行き着いた、人と自然の丁度よい付き合い方の到達点が「五色ヶ原」なのかもしれません。

乗鞍の歴史は、上平さんと住民たちの歴史。

ぜひ、乗鞍岳の山行と合わせて五色ヶ原にも足を運んでみてください。この美しい自然郷が長い年月をかけて育んだ恵みを、全身で体感することができますよ。

(写真:茂田羽生)


・五色ヶ原の公式サイト
http://goshiki2004.com/

・YAMAP岐阜旅スタイル
https://yamap.co.jp/mypage/652426

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