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新しいトレイルを探す旅、「ジョージア」で1番美しい湖 -後編-

前編はコチラ

ヨーロッパ最高峰エルブルース

ジョージアトレッキングの4日目の朝を迎えていた。時計を見ると6時18分。次に温度計を確認すると5℃だ。山々に囲まれた湖は日が差すまでに時間がかかり、なかなか暖かくならない。8時を過ぎてようやく、山々に遮られた日の光が湖を包み込む。冷えた体をじんわりと温め、テントを乾かす。後ろ髪を引かれつつ、峠に向って歩き出す。

90分ほど登り、峠に辿りつく。そこで見えたのは白い双耳峰、ヨーロッパ最高峰エルブルースだ。ロシアにあり、標高は5642mだ。
予期せぬ出会いに感動し、1時間ほど余韻に浸る。稜線を眺めながら、友人が登っていたことを思い出す。後日、友人に聞くと、エルブルースの山頂からジョージアの山々を眺めて面白そうだと感じたとのこと。

ブルーベリー

エルブルースを後にして、峠を下っていく。標高2,400m地点で見つけたのは、たわわに実るブルーベリーだ。手が紫になりながら、必死に口に頬張っていく。疲れた体に甘酸っぱいさが沁み渡る。
ちなみにヨーロッパ系葡萄はこの南コーカサスが原産とされる。葡萄も探すが見つからなかった。

口に甘酸っぱい余韻を残したまま、再び歩き始める。
目を細めると、遠くに昨日のイギリス人ハイカーたちが湖の縁を歩いているのが見える。1時間前に彼らが歩いていた場所に辿りつくと、「ハート型の湖」だと分かる。風景も物事も視点を変えると面白い。

この日の夜は、峠を超えてからキャンプをする予定だった。のんびりしたり、道に迷ったりで、峠越えする前に夕闇が迫ってきた。平らな場所を見つけ、たまらずここでキャンプをする。気づくと心に余裕がなくなっていた。
星明かりに包まれると、静けさはだんだんと濃くなっていく。心の余裕のなさと静けさが相まって、今回の山旅を内省する。そもそも日本人の知らない静寂なトレイルを求めてやってきた。実際にジョージアを歩き、見渡す限りの空間に私しかいない。あるのは目の前に広がる自然だけ。寂しさはなく、贅沢な時間だ。でもふと、足もとのトレイルを見る。この細く延びる線は、多くの人が歩いたからこそ今も残っている。時間軸を取り除くと、ここには多くの人の気配がする。人を感じないようで、人を感じる。そんな思いで最後の夜が更けていく。

焚き火

朝、霜が下りていた。このトレイル最後の峠を登りきる。峠で1時間のんびり過ごし、下山を開始する。

急いで歩けば、夕方には町まで辿り着けそうだが、まだ終わらせたくない気持ちだ。ゴール手前4kmでもう1泊することに決める。最後の夜は焚き火をすることにした。着火剤を持ってきていないので、集めた枯れ木をナイフで薄く削っていく。火が付き、煙の匂いに包まれながら日記を書く。行為や風景を思い出しながら、ペンを走らせる。
最近、自分自身が大事にしている言葉に「温故知新」がある。それで、今回の旅には「串田孫一」の本を持ってきた。その中の「山での行為と思考」を抜粋すると、「山では自分の行為の質が変わるように、思考の質も変わるでしょう」「山での行為と思考が一つになる場合があります」
山での行為が自分の思考だとすると、そこにはどんな意味があるのだろうか。例えば、都会を歩くときは惰性に歩くことがほとんどだと思う。今日の仕事、休日の予定、家族、SNS、たまたま目に入った広告と思考は移ろいやすい。一方で山を歩くときはどうだろうか。私は次の一歩を地面のどこに置くかを瞬時に考える。石はないか、木の根の状況はどうか、歩きやすいポイントはどこか。今ある、目の前の行為に集中する。ここにトレッキングの魅力があると思っている。これが「串田孫一」の「山での行為と思考が一致する」意味だと考える。50年以上前に彼が感じたことが、時間を超えて読み継がれ、今を生きる私に影響を及ぼす。これはまるで道のようだとも思う。

ふと、以前歩いたラップランドやアメリカのロングトレイルを思い出した。旅が日常に変わるのが、ロングトレイルの良いところだと思っている。ただ今回の短い山旅では、その境地には至らない。日常でもない、非日常でもない、この時間を旅と呼ぶには安易だ。惰性な思考から今に集中するため、「行為」として火に薪をくべた。

林業とダム建設から見えてくる環境と経済

翌朝、この旅始まって以来の雨の中を出発する。増水した川を渡り、前編で紹介したKvedaTsvirmindi村にたどり着く。ゴール地点のハイシまでもうすぐだ。

ハイシへと続く林道では大型トラックが大きな木を運んでいく。樹齢、何百年だろうか。中学時代に歌った「ドナドナ」を思い出す。ここは日本やアメリカ、ヨーロッパのように国立公園の概念がない。ヒマラヤのように昔から人が住んでいるエリアだ。木を伐り、経済的に豊かになろうという現地の人々を部外者の私が止められるだろうか。
そして静かにハイシへ到着する。達成感はなく、トレイルが終わってしまった悲壮感から来る静けさに浸る。

トレッキングを終えて、メスティアという町にやってきた。近くに氷河があるとのことで、観光することにした。車をチャーターして向かう。その車中から、大きな工事をしている様子が目に入った。
横で運転している案内人のLukaに訊ねると「ダムの工事」だと言う。私「ダムって必要なの?」と聞くと、Luka 「No」「一部のお金持ちの仕業なのだと」と答える。憤りとは正にこのことだ。

思い返すと昔、日本も黒部ダムを作り豊かな経済発展へと成し遂げていった歴史がある。今は長崎県の石木ダムの問題がある。私は石木ダム建設に反対の立場だが、日本もジョージアも同じ「環境」と「経済」との対立で揺れている。私にできることはなんだろうかと自問自答する。100年後も美しいトボワチキル湖であってほしい。

旅は終わる。でも無意識に自分自身に問いかける。

「次はどこを歩こう」

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