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海から山へ。元ダイビング誌編集長が、山暮らしを始めるまでの物語。

「ちょっと薄っぺらくて恥ずかしいんですけど、一日の中に自然が当たり前にある生活ってかっこいいなって思うようになったんですよね。」

雑誌の仕事やプライベートの旅行で世界の都市部に暮らす人々を見てきていた夫の浩さん。アウトドアとインドアの境目なく、自然の恵みと都会の便利さを享受する彼らの生活に驚きを隠せなかったといいます。

「彼らは、街にいるより外にいる方が気持ちいいからって、当たり前のように自然を生活に取り入れる。

例えば、朝、3000m級の山でスキーをしてから出社。昼は街の中にある広大な公園で散歩してランチ。週末の夜は、仕事終わりにそのまま職場のみんなと山へキャンプに出かける。そんな1日を過ごす人にも出会った。

彼らを見ているうちに、休日や連休にしか自然が味わえない都心暮らしに違和感を感じはじめたのかもしれません。」

現在の仕事場。窓に季節の移ろいが映える。

「今の仕事場は、とっても静かなんです。聞こえてくるのは、沢のせせらぎと鳥たちのさえずりだけ。ここに座っているだけで満たされた気分になります。山の中っていつもその時なりの美しさがあるんですよね。雨でも晴れでも曇りでも。」

そう話すのは妻の夕紀子さん。

優しいひだまりの部屋も夕紀子さんお気に入りの場所。

そう語るお二人ですが、今に至るまでには、それなりの葛藤や変遷があったよう。どのようにして乗り越え、どのように変化しながら、山の暮らしへと入っていったのでしょうか。

都心での暮らしに誇りをもっていた浩さん

浩さんは、都心の大学を卒業し、金融関連の企業に4年ほど勤めますが、自分にスーツを着る仕事はとことん合わないと痛感します。そんな中、縁あって海のレジャーを専門に扱う出版社へ転職することに。

15年ほど海の世界にどっぷりと浸かりダイビング専門誌の編集長を4年勤めた浩さんは、その後フリーランスに。他ジャンルの雑誌の仕事もはじめ、陸の世界にも見聞を広げます。都心で暮らし、国内、海外を取材で飛び回る。そんな生活に心酔していました。

浩さんの本棚には、音楽/文化/スポーツ/民俗学これまでの取材内容がうかがえる本が並ぶ

「僕は東京郊外の八王子出身で、ずっと都心の生活に憧れてました。お金はないんだけど(笑)、赤坂のマンションからミッドタウンを経由して六本木の事務所に通う生活。都心に暮らしているとおしゃれなモノや世の中のトレンドがつかみやすい。当時はすごくそれがきもちよかった。」

子供の頃から大自然の中に放り込まれていた夕紀子さん

夕紀子さんは小さな頃からアウトドアの英才教育を受けていました。小学校の頃から、無人島で10日間を過ごすキャンプに参加したり、丹沢山脈を子どもたちだけで縦走していた筋金入りの自然児。

浩さんがフリーランスになった頃、夕紀子さんは浩さんが勤めていた出版社に入社。しばらくの後、浩さんのアシスタントとして働き、赤坂での都心生活を共にはじめました。

ところが、都会の窮屈さに夕紀子さんは強く違和感を感じはじめます。

「とにかく深呼吸ができなかった。緑もないし。周りは全部ビル。狭い住空間がとっても息苦しくて。ストレスでめまいを起こすこともありました」

いきなり地方への移住も夕紀子さんには抵抗のないものでしたが、浩さんにはとてもイメージできるものではありませんでした。

それではと、夕紀子さんが提案した住処は、下町情緒があり人の温かみが感じられる浅草。
浅草なら便利だし、個性がある街でおもしろそうだからと浩さんも承諾。二人の浅草での生活がはじまります。

イメージがわくまで、動き遊び続けた。

それでも自然溢れる場所での生活が諦めきれない夕紀子さんは、浩さんを休みのたびに奥多摩でのハイキングやキャンプに誘います。

「都心暮らし以外のイメージがずっとわかなかったんですよね。ま、適当につきあって、はぐらかしていれば、そのうち、飽きるかなと思ってた(笑)。

僕、泳ぐのが好きなんですけど、ある時、奥多摩の川で泳いだんですよ。いい年してね。そしたら、もの凄く気持ち良かった。海水みたいにベタベタしないし。そこらへんからですかね、なんだか奥多摩もいいのかなって思いはじめたのは。都心にも通えない距離じゃないし、あわなかったらまた都心に戻ればいい。国内、海外のいろいろな人に触れ、なんとなくそれまでの価値感が変わってきたのも、その頃でした。」

奥多摩の地が気に入った浩さんと夕紀子さんは、家探しをはじめました。

「二年間で10軒ぐらいはまわりましたかね。ハイキングしたり、川で遊んだついでに空き家も見てまわったんです。実は、その時もまだ僕はそれほど前のめりではなかったんですよ。いい物件がなかったら彼女も諦めるでしょって感じで。」

「不動産だと取り扱い物件が少ないうえに、売却物件がほとんどだったんです。それで空き家バンクで、この物件を見つけて。賃貸だったし、大家さんも、住み始めるまえに少し手をいれてくれたり、とても親切。旦那もここが気に入ったみたいだし。住むことへのイメージも湧いたみたい。やっと自然豊かな場所での生活を始められました。」

リビンクの梁。奥多摩でもこれほど立派な梁のある古民家は珍しいという。

浩さんが自ら張った床板は奥多摩原産のスギだ。

奥多摩の生活を楽しむ人々からの刺激は、想像もしてなかった嬉しい誤算。

夫婦二人で発行している奥多摩町公式のフリーペーパーがあります。「BLUE+GREEN JOURNAL」。この誌面でお二人は奥多摩町への移住者や地元の方を丁寧に取材し、奥多摩町の魅力を発信し続けています。

(提供写真)

「取材した方って、みんなすごく生き生きして、奥多摩での生活を楽しむぞって気概に溢れてるんですよ。

カヌーのインストラクター。釣り竿職人。家具職人。アウトドアギアの中古販売。山小屋の番頭さん。

みんな自分の「好き」を貫き通すための「覚悟」をして奥多摩に来た。地元の方もここで暮らす覚悟をもって暮らしている方が多い。

楽しんで生活している人の子どもって、いい子ばかり。私も奥多摩に来た当初は子どもを持つことがイメージができなくて、自由な生活を謳歌していました。

でも、奥多摩の子どもたちを見ているうちに、あ、ここでなら自分にも子育てができるのかなって気になれたんです。」

理想に向かって一歩一歩イメージを確かめながら積み重ねることの大切さ。

二人だけで自然の恵みと都会の便利さを満喫した生活を送るつもりだったのに、奥多摩で暮らす素敵な人々に出会ううちに、この地での子育てにまで挑戦することになったのは、嬉しい誤算だとお二人は笑います。

「都心+海」の生活から、「田舎+山」の生活への変化。この変化を一気にしてしまったらご夫妻の奥多摩での生活はうまくいかなかったかもしれません。浩さんはイメージが湧かないことを正直に伝え、夕紀子さんは浩さんが少しづつ遠いイメージに近づいていくための一歩一歩を積み重ねた。

山暮らしへの道のりを丁寧に歩んできたお二人だからこそ、奥多摩の生活が楽しめているのでしょう。

(写真:藤原慶

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ライター:
山口岳

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