彼は生まれながらの開拓者だった
常に可能性と夢にとりつかれ
自らがその化身となって道を拓いていった
一刻の躊躇もなく
時にはまるで猛獣が獲物を追いかける如く貪欲に
しかし川が流れるように自然なこととして
心のままに生きた
「伊藤正一という道 告別の詩」(2016年 伊藤二朗)より抜粋
雲ノ平山荘は、戦後間もなく黒部川源流域に入り、道なき道を切り拓き、山小屋建設を夢見た黒部の主・伊藤正一氏が建てた4つ目の山小屋。“最後の秘境”と呼ばれたその場所は、時を経て、形を変えながらも、人が自然と向き合う場所として存在し続けています。
「“最後の秘境”とか言ってるけど、それはもう過去の称号だと思いますよ。親父が開拓したような頃はヘリも飛ばず、物理的に最後という意味で。当然、ガス・水道・電気もなければ、エスケープルートもない。山小屋建設不可能地帯と考えられていました。そこに営業小屋を建てようという突拍子もないことを考えた人は、親父のほかにいなかったようです」
伊藤正一氏の二男・二朗さんは、雲ノ平山荘の現小屋主。兄の圭さん同様、赤ん坊の頃から夏は黒部源流で暮らしていました。
二朗さんにとって、山小屋はあまりにも当たり前にそこにある日常。正一氏の名著『黒部の山賊』に登場する山賊の一人、“鬼サ”(鬼窪善一郎氏)は一番身近にいたお爺さんでした。鬼サと沢へ釣りに行ったり、大人たちの怪談話を聞いたり、いろいろな人の感触に触れて育った少年時代。おぼろげな記憶の中ではっきりと覚えていることがあると言います。
「雲ノ平に泊まりたくない、という時期があったんですよ。夜寝る前にボーッと光が見えたり、なんか音がするような気がして、すごく怖がった時期がありました。今はもうないですけど、先入観のない子供の精神が自然界の生命に触れ合って生まれる幻想というか、子供には本当に見えるものだったのかもしれませんよね」
そんな二朗さんは、下山後の学校生活や世の中の常識にまったく馴染めなかったと言います。孤独だった少年時代はしかし、後の二朗さんの世界観を形作った大事な時期でもあったのです。
「16歳で高校を辞めて、そっからは無頼漢じゃないけど、オンザストリートでしたよ。17ぐらいから日本をほっつき歩くようになって。あくなきオンザストリートでした(笑)」
音楽や美術、芸術作品の中に自分と共鳴するアイデンティティを見出し、どうにか生きていたという二朗さん。18歳の年末に渋谷の道端で座っていたベトナム系フランス人のバックパッカーとの出会いが、二朗さんを新しい世界へと誘いました。
「彼と何度か会ううちに、いつか君が生まれた場所へ行ってみようかなと口走って。
それが何もなかった自分の、唯一の予定になったんです。自分に対する約束みたいに」
その後、バックパッカーとは連絡が途切れたものの、住む場所や語学学校をブッキングし、フランス渡航の準備を進めた二朗さん。しかし、希望に燃えて旅立ったわけではなかったと言います。
「空港に降りた瞬間に、俺はもう終わりだなと思っていたんですよ(笑)。ちょうど失恋で苦しんでいたりもしてね。3日後ぐらいには場末のバーで酔い潰れているみたいな状態でした。暗がりの中のようだったけど、こっから冒険が始まるんだという暗い情熱のようなものはありました」
歴史を感じさせる石造りの町並み、人種も年齢も問わず誰もが居心地よさそうに集う町外れのバー、偏西風の吹く乾いた大地。1年間、異文化に身を置きながら様々な刺激を吸収し、フィルムカメラで写真を撮ったり、散文を書き綴る日々を送った二朗さんは、再び日常へと戻ってきました。
2001年にヨーロッパから帰国した二朗さんは、雲ノ平山荘の小屋番になりました。その頃、二朗さんたち兄弟が山小屋を手伝うようになったのは、正一氏からの要請ではなく、自分の判断だったと言います。
「父は、最後まで山小屋を自分のものだと思ってました。自分が主役で自分が懸命に現実と向き合って、当事者だという意識がずっとありましたね。“二人が入って来て助かる、嬉しいぞ”みたいなことは言ってましたけど。でもあくまで自分が主役なんですよ。合理的にどう引き継がせるかという文脈はほぼなくて」
当時、正一氏は林野庁と山小屋地代裁判※の渦中にありました。二朗さんも終盤には裁判に関わるようになり、登山道の維持管理や遭難救助など多様な公共的な役割を担っている山小屋が正当に評価されていない実態を理解し、その問題点について思考を深めるようになりました。
12年に及んだ裁判の間、正一氏の山小屋は、建て替えはもちろん、大幅な修繕すらできない状態で、消耗が進んでいました。2003年の裁判終結後、まず急務だった水晶小屋の再建工事が始まり(前篇参照)、縁の下の腐食が進行していた雲ノ平山荘の再建も視野に入ってきました。
山小屋を初めて数年間は「全くの若造で、生活感もなければ、コミュニティを統括する価値観もなかった」という二朗さんでしたが、徐々に知識と経験を蓄積し、旅から得た着想なども手伝って、山小屋の再建工事を主導する決意をします。
「父は80歳前後でしたし、その辺りから最終決定は兄と話して決める、ただし、内容についてはお互い干渉せず、立ち上げたプロジェクトに関しては本人が責任を持って進めるということにしました。父には報告はしていたけれど、やるからには任せろということで進めました」
資材の輸送費から上下水道やトイレなどすべてのインフラを構築するために莫大な費用がかかる山小屋。建て替え工事の大前提は、過酷な自然条件の中で、できるだけ長持ちする堅牢な建築とすること。同時に、環境と調和したシステムと豊かな居住性を持たせ、持続可能な山小屋とすることを目指した二朗さんは、日本の伝統工法を研究し、その意にかなった職人や材木、デザインを探すところから準備を進めました。
「営業規模を拡大することが目的ではなく、どれだけ創造性豊かに、かつ持続可能なバランスに落とし込んでいくかが至上命題だと思います。人々に愛着を持ってもらい、受け継がれていくためには居住空間が魅力的だということも大きな要素です」
「ここは、人懐っこい場所でありたい、みんなが居心地いいなと思ってくれる場所でありたいと思います。多様な人を受け入れられる包容力っていうのかな、歴史のある町の酒場のように」
二朗さんの願いを込めて2010年8月に生まれ変わった雲ノ平山荘は、厳しい自然環境下での耐久性、周囲の風景と調和した外観、そしてシンプルで機能美に包まれた内部空間を兼ね備えた建築となりました。
とはいえ、二朗さんのゴールはまだまだ先にあるようです。
3年ほど前から、夕食後に黒部源流の開拓史を見せるスライドショーを流し、そのあとに日本の国立公園と自然を取り巻く問題について登山者に知ってもらうための話をしています。
「次にやっていかなきゃいけないのは、ハード的なことじゃなくて、ソフト面なんじゃないかなと思うんです。山小屋は自然界と人間が向き合う時の一つの前線基地のようなもの。自然にポジティブな、クリエイティブな形でつながっていくところです。自分なりに山小屋がどういう役割を担うべきなのか、ということを考えながら工夫してやって来ている状態です」
国立公園の中にあり、多様な公共的役割を担ってきた山小屋ですが、時代の変化に伴って、対応し切れない案件が増えていると言います。その問題が顕著に露呈したのが、2019年の初夏に北アルプスの山小屋を震感させたヘリ輸送問題※でした。
「日本では国立公園の存在自体が認知されておらず、山小屋が長年の大規模な利用にさらされる一方で、自然保護の機能がほとんどないことが問題の根幹にある」と教えてくれた二朗さん。
山小屋と登山者がサービスを提供する側・される側という割り切った関係ではなく、登山や国立公園というものを将来にどう文化として築き上げていくのかということを“一緒に考えていきたい”と言います。
「いろんな視点を与えられればいいなと思います。父を始めとする先人たちがここにどういう物語、歴史を築いて来たのかというようなことだったり、国立公園を取り巻く社会問題、その歴史的背景だとか、欧米ではこんな方法論があってこうやって機能しているとか、それぞれに考えてもらえる視点、ヒントになる素材を与えることがとても重要だと思っています」
ヨーロッパでの放浪を経て、日本の気候、四季、生物の多様性、景観変化の多彩さというかけがえのない価値に気がついたという二朗さん。その自然の美しさが最大化されるような方法を考えつつ、今後は、外国人へ向けた発信も展開したいと意欲的です。
「日本の自然環境の豊かさや景観の美しさをちゃんとした形で発信していければ、全く違う方向で生産的に山小屋文化を作っていけるんじゃないかと僕は思ってるんです。産みの苦しみは伴いますけど、確信が持てることを一つずつやっていくしかないんじゃないですかね、そのためには海外からの登山者も受け入れて、山小屋の存在を周知していくことが大事ですね。持続可能な発展ということを視野に入れて」
建て替えから10年目を迎えた雲ノ平山荘は、どんな登山道からも2日かかる奥地にありながら、多くの登山者が“一度は行きたい”と願う人気の山小屋になりました。
インタビューの終わりに、二朗さんは奥さんの麻由香さんへの感謝の気持ちを伝えてくれました。
「今の僕があるのは、妻に出会ったことが大きいです。彼女がいることで、山小屋にも格段に生活感が生まれたし、人の輪も広がった。本当に感謝しています。そのことをもっと話さなきゃいけなかったな(笑)」
一人で過ごした少年時代、彷徨いながらも歩き続けるうちに、心を許しあえる友だちができ、世界が広がったことを肌で感じたという二朗さん。多様な人々が訪れる山小屋が、人の輪を生み出し、文化が育まれる場所であってほしいと願い、地道な努力を続けるその姿には、確実に父と同じ開拓者の魂が宿っていると感じました。
伊藤正一氏のロマンチシズムの結晶ともいうべき雲ノ平山荘は、人が自然と向き合う最前線であるとともに、人と人が出会い、その輪を広げていく場所として、今日も存在し続けています。
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今日も雲ノ平の平原に
高山のすがすがしい風が吹いている
晩年あなたは「雲ノ平の景色は変わっていないな」と言いながら
静かに立っていたね
時代が流れたり
悲しみや愛が行き交ったり…
変わらないものと変わるもの
それは一体なんだろう
(中略)
父さん、僕も束の間この冒険を楽しむよ
そしてあなたがしたように
道を拓いて行こうと思う
世界と人生を愛するために
歩いていけば
どこかで出会えるだろうか
若き日のあなたと…
父さん
ありがとう
さようなら
「伊藤正一という道 告別の詩」(2016年 伊藤二朗)
雲ノ平山荘の建築、山小屋ヘリコプター問題などの詳しい内容について
「雲ノ平山荘」の公式サイト
https://kumonodaira.com/
(写真:and craft 臼井 亮哉)