いつからそこにあるのだろう
高いたかい山の上に山小屋が建っている
木を切り、運び、すべて人力で建てた小屋
それは、人々の無限の好奇心と、野望と、情熱によって築かれた天空の城
常念岳の南の稜線上、蝶ヶ岳の山頂直下に「蝶ヶ岳ヒュッテ」が建っています。山小屋は普通、稜線上と言っても風雪をしのぐために、少し窪んだ場所に建てるといいますが、蝶ヶ岳ヒュッテは見事に稜線上に建てられています。雨も風も吹きさらし。開拓者は、どうしてそんな過酷とも思える場所に山小屋を建てたのでしょうか。
「もともと、父は蝶ヶ岳の手前の大滝山で山小屋をやっていたんです。若い頃、蝶ヶ岳に初めて登った時に、“こんなに美しい景色の場所があるんだ”と感動し、いつかここに山小屋を建てたいと心に決めたと言います」
なぜこの場所に山小屋が建てられたのか?そもそもの問いに答えてくれたのは、蝶ヶ岳ヒュッテの現オーナー・神谷圭子さん(以下、圭子さん)。
蝶ヶ岳ヒュッテは圭子さんの父・中村義親さん(以下、先代)が建てた山小屋。北国街道村井宿の名主である中村家は財力があり、おじいさんは、槍ヶ岳の殺生小屋を管理していたと言います。さらに、昭和の初めには大滝山の大滝小屋(現大滝山荘)を譲り受け、2軒の山小屋を運営するに至ったそうです。
時は戦後の登山ブーム。山好きの間でも特に財力を持った男たちが次々と山小屋を建てる“山小屋戦国時代”のような時代だったと言います。当然、美しい景色を持つ蝶ヶ岳は多くの人の憧れの的でした。
夢を実現するため、いち早く行動に出た先代は、県やあちこちの関連機関に掛け合い、山小屋建設の許可を取得。小さなベースキャンプひとつから建設工事が始まり、整地・製材・輸送と、3年の歳月を経て、昭和34年(1959)、ついに蝶ヶ岳ヒュッテが完成しました。
山小屋を営む家に生まれ育った圭子さんですが、意外にも、蝶ヶ岳に初めて登ったのは大学生になってからだと言います。
「高校生の頃まで、父には”蝶ヶ岳は遊び場ではない。お父さんの仕事場だ。来るんだったら遊びに来るんじゃなく、仕事として来い。”と言われていたので一歩も近付けませんでした。それが、大学に入った途端“戦力”ですよ。夏休みに友達と遊んだ記憶はほとんどありませんね。」
卒業後は普通の会社に就職したい思ったこともありましたが、そのままヒュッテの一員となった圭子さん。一方で先代は、客室を増築し、厨房、ホールを新築するという大工事を行い、蝶ヶ岳ヒュッテを200人規模の山小屋へと整えました。
しかし、先代は長年の苦労がたたったのか、改築工事からさほど時を経ないうちに、不治の病に倒れてしまいました。その後、平成2年(1990)に先代は帰らぬ人となり、圭子さんは、26歳の若さで蝶ヶ岳ヒュッテの2代目オーナーとなりました。
圭子さんは、真っ先に売店・食堂のメニュー、スタッフの応対の改善など主にソフト面の改革に取り組みました。それまで、オレンジジュースとサイダーと、塩ようかんしかなかった売店は見違えるほど活気付き、登山記念のピンバッチやTシャツなどのお土産も、登山客の心をつかみました。
時代の流れを敏感にキャッチした圭子さんは、個室・談話室の増設や、バイオトイレの設置にも取り組みました。そして、特に情熱を注いだのが、夏期診療所の開設でした。
きっかけは、ある死亡事故。大滝山荘に運ばれて来た高山病の重病人に対し、救助ヘリを要請したものの、天候不良で翌朝まで下山できず、死に至ってしまったのです。
「あの時点で医療行為をする人がいなかったことが一番の後悔でした。何としても診療所を作りたいと思いました。」
事故後、すぐに大学への交渉を開始した圭子さん。しかし、近隣の大学では既に別の小屋で診療所を開設している例が多く、更なる開設はできないと連戦連敗。5年の歳月を経て、名古屋市立大学医学部の三浦教授とめぐりあい、平成10年(1998)、「名古屋市立大学医学部 蝶ヶ岳ボランティア診療所」が開設しました。
現在、圭子さんは家庭の都合で松本事務所にいることが多いものの、予約を受けたり、ヘリの手配をしたりと、頭から蝶ヶ岳が離れることはありません。この夏からは大学生になった娘さんが山へ上るようになり、少しずつ先代の気持ちがわかるようになってきたと言います。
そんな圭子さんの好きな場所は、山小屋から常念岳方面へ50mほどの所にある瞑想の丘。
「東に安曇野、西に槍穂高の山並みが見えて、夏の夜には、真っ暗な闇の中に花火が見えることもあります。夏が終わる寂しさもあるけれど、そんな風に人々の営みが見えるのが好きだなと思います」
こうして圭子さんが半生をかけて守り継いで来た山小屋では、今、どんな人たちが、どんな想いで働いているのでしょう。3名の方にその背景や思いを伺いました。
今年で7年目という風間歩さんは、食品や備品の在庫を把握し、買い出しや荷造りのために定期的に松本事務所に下りるという重要なポスト「ヘリ番」を担当。また、元気で明るいキャラでヒュッテのムードメーカー的存在でもあります。
宮崎県出身の風間さんは、大学進学で長野へ来て、常念小屋でバイトをしたのが小屋ガールデビュー。卒業後はそのまま常念小屋で働き、5年後に蝶ヶ岳へ移ってきました。
「常念から別の場所へ移ろうと思った時に、決め手となったのは、やっぱりここからの槍穂高の景色ですね。他の小屋だったら、夕焼けがきれいかってわからない小屋が多いんですけど、ここにいれば、小屋から一歩出れば見られて、お客さんに「紅くなってますよ」って言って、次の瞬間にはそれを見て喜んでいるお客さんの姿を見られて、よかった〜って思います」
一方、本業がスポーツトレーナーで夏の間だけ手伝いに来ているという三浦さなえさんと蝶ヶ岳ヒュッテとの出会いはちょっと変わっています。
「旅行でニュージーランドのトレイルを歩いた際に、山小屋で働いている現地の人から、日本の蝶ヶ岳が素晴らしいという話を聞いて、どこそれ?ってなって。その人を介して蝶ヶ岳ヒュッテを紹介してもらいました」
日本で初めて登った高山が蝶ヶ岳だったという三浦さん。その景色の良さにすっかり魅了され、以来、夏になると蝶ヶ岳に呼び寄せられるように不思議と仕事の都合ができて来ていると言います。
そして、賑やかな女性スタッフに囲まれて、黒一点で頑張っていた男性・阿部信之介さんにもお話を聞いてみました。
現在大学3年生の阿部さんは、埼玉県出身。オーナーの娘さんが通っていた高校出身という縁で、大学1年の夏休みから蝶ヶ岳へ来ています。
将来は国際的なジャーナリストになりたいという阿部さんは、山小屋にもパソコンを持ち込み、休憩中にレポートを書く勉強家。そこまでして毎年来る理由はやはり、槍穂のパノラマが近くにあることだと言います。
「よく晴れて、空気が澄んだ朝にみるパノラマもいいし、朝焼けの時に蝶ヶ岳の影が映ったり、夕暮れ時には雲をまとって幻想的に見えたり、長くいるからこそ毎日表情の違った槍穂のパノラマを見られるのが魅力です」
こうして蝶ヶ岳ヒュッテには、年齢や背景は異なれど、いずれも蝶ヶ岳の美しい景色に引き寄せられた人々が集まり、それぞれの個性と経験を生かして働いていました。若い人が生き生きと働くことで、笑顔と活気が生まれ、その力はヒュッテに泊まるお客さんにもパワーを与えているように感じました。
最後にご紹介するのが、20歳の時からここで働いているという酒井雄一さん。35年間、蝶ヶ岳ヒュッテと大滝山荘の施設メンテナンス全般を担い、若い人たちの活躍を陰で見守るまさに「番人」のような存在です。
東京生まれの酒井さんは、大学浪人中に、知り合いから“ここは景色がいい所だよ”と紹介され、静かなところで勉強しようかなと思って蝶ヶ岳に来たと言います。
「来てみれば、穴を掘ったり、資材を運んだり、ほとんど毎日土方仕事で、全然静かじゃないし、勉強もできなかったです(笑)」
稜線上に建つ山小屋は、日々の風雨で日常的なメンテナンスが必要です。先代オーナーの下、まさに叩き上げで維持管理の技と知識を習得していった酒井さん。代替わりしてからは、ソーラーパネルを取り付けたり、屋根を剥がしてバイオトイレの設置をしたりと、圭子さんの挑戦を裏方で支えてきました。
「ここにいると、毎日大変なことがいっぱいあるんです….だけど、最初はできないと思うようなことでも、何とかなっちゃうものなんですよ」
独特の雰囲気を持ち、多くを語らない酒井さんに、「今も景色を見て感動することはありますか?」と尋ねると….「僕は変わり者なんで、そんなに感動しないんです。お客さんにとっては、この槍穂のパノラマが一番魅力なんでしょうけど…毎日の流れの中で、今日はよく見えるなぐらいで、ただ、夜、発電機を消しに出て、穂高や安曇野の夜景が見えた時に、きれいだな、ここに来てよかったなと思います」と、はにかみながら答えてくれました。
人生の半分以上を蝶ヶ岳とともに生きてきた酒井さんにとって、この景色は生活の一部。ある意味では、心の故郷のように、いつもそこにあるのかもしれません。
“ここからの美しい景色を多くの人に見てもらいたい”
風雪からの耐久性よりも、景観を一番に考えて建てられた蝶ヶ岳ヒュッテは、先代から圭子さんへ、そして小屋で働く人々の心を引き寄せ、結びつけながら発展してきました。
多くの人々を癒し、励まし、そして明日へと導く蝶ヶ岳ヒュッテへ、あなたも出かけてみませんか?
扉を開ければそこには、心震える絶景が待っています。
写真:臼井亮哉 (and craft)
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2019年12月15日 神谷圭子さんが病のためご逝去されました。山の安全に帆走された生き方に心からの敬意を表し、ご冥福をお祈り致します。(.HYAKKEI編集部)