険しい山を登り終えた後、あなたは何を食べたいですか?
長野市最北部の戸隠連峰を制したなら、身体へのご褒美はぜひとも戸隠そばを。さらに、山に熟知したオーナーと話しながら、山菜を肴に地酒をこくり…なんてことができたら最高ですよね。戸隠牧場の入り口に、そんな夢を叶えてくれる一軒のおそば屋さんがありました。
「最近は訓練以外ではほとんど山に行けてないし、僕が山について語ってたら、皆に怒られそうで…高所恐怖症だし」と、はにかんだ笑顔を見せたのは、曽根原功(そねはらいさお)さん。
『手打ちそば岳』の2代目店主であり、フリースタイルスキーの元日本代表として、2011年から3年連続でワールドカップに出場したスキーヤーです。
選手時代、世界を見てきた功さんは、一旦戸隠を離れたからこそ、戸隠の良さ、『特別さ』が見えるようになったと言います。
「戸隠山から信仰が始まって、神社があって、そば打ちが伝わって、お参りに来たお客さんがそばを食べて、そばざるは山で採った根曲り竹細工で、農家の人はそばを作って…。すべてが地域で完結しているんです。そういう特別な場所で暮らすことを誇りに思っているし、豊かなことだと思います」
「戸隠山がきれいに見えた時など、無意識に山に向かって手を合わせることがあります」と語る功さんは、2014年に現役を引退してからは、地元のジュニアチームのコーチ、戸隠スキー場のパーク運営のほか、長野県の山岳遭難対策協議会の救助隊員など、様々な場で活躍を続けています。
救助隊には、地元の登山ガイドから誘われて入隊したものの、初回の岩場での訓練で、自分が高所恐怖症だったことに気がついてしまったと苦笑い。
とはいえ、雪山での遭難事故の際には、得意のスキーが役立ちます。スキーを担いで山に登り、怪我人をソリに乗せて下山したこともあるそうです。
そんな功さんは、現役時代から夏はそば屋で働いてスキーの海外遠征費用を稼いでいたそう。そば職人としても、既に10年以上のキャリアがあります。
そばを打ち始めると、その表情が一気に職人の顔に。
流れるようなそば打ちの技に、しばし見惚れてしまいました。
『岳』は、木の温もりが感じられる山小屋風の建物。戸隠の伝統工芸・根曲がり竹細工のランプシェードや、一輪挿しの野花、絵などがさりげなく空間を彩っています。
「ただ単にそばを食べに来るだけではなく、山菜を味わったり、鳥や虫、風の音を聴いたり….戸隠の《特別な時間》をゆっくり楽しんでもらいたいです」
功さんのその想いは、お品書き一つからも伝わってきます。手作りのお品書きは、イラストも含め、すべて功さんの自筆。単なるメニューではなく山菜の解説など読み物としても充実した内容です。
岳で使っているそば粉は、すべて戸隠産。香りや食感を楽しんでもらいたいと、粉はあえて粗挽きにしているそうです。
口に含むとほのかに甘みが感じられるそばと、野の香りを残した山菜の天ぷらとの相性は言うまでもありません。
「山菜もキノコも、戸隠では当たり前のように採ってきて出しているけど、都会から来るお客さんにとっては特別なもの。ただお茶請けや天ぷらとして出すだけじゃなくて、ちゃんと価値を伝えるように出せたらいいなと思って、最近は前菜としてメニューに入れています」
山帰りにゆっくり休んでもらえるようにと、そばに合う地酒も豊富に取り揃えられています。
類まれなアイディアとデザインのセンスを持った功さんは、地域の人からも一目置かれる存在。これまでに、戸隠山小屋組合や戸隠そば商業組合のパンフレット、地酒のラベル制作などを手がけ、その能力を惜しみなく発揮してきました。いずれもプロ顔負けのクオリティです。
その他にも地域での活動を数えると10本の指では足りないぐらいだという功さん。
そこまで地域に尽くす原動力は何なのでしょうか。
「自分が選手の時に、精神的にも経済的にも地元の人たちにたくさん支えてもらって、それを返したいという気持ちが大きいですね。あとは、この自然と文化があるおかげで商売ができているし、今ある自然や文化を子供たちに伝えていくことはずっと続けていきたいと思っています」
戸隠山を愛し、山の恵みと周りの人々への感謝の気持ちを忘れない功さん。
そんな功さんの存在自体が、『岳』のみならず、戸隠の奥深い魅力を表しているようにも感じました。
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妙高戸隠連山国立公園に位置する戸隠エリアには、気軽に楽しめるハイキングコースから、アグレッシブに登山を楽しみたい人に人気の山まで、様々な楽しみ方があります。
手打ちそば岳は、『食』を通して戸隠の素晴らしい自然を発信しているお店。気さくな店主との会話も弾みます。
山に登る人も、そうでない人も、戸隠の楽しみ方のひとつに、岳で過ごす《特別な時間》を加えてみてはいかがでしょうか。
(写真:臼井亮哉)