普段は登るために行っていた山が、生活の場になるとどうなるのか。標高1100mの山麓での生活を通じて、感覚の変化について考察してみました。山麓生活の今とこれからをお伝えする『山と都会と、暮らしのみらい。』、第1弾。
みなさんは、山のどこに魅力を感じて登っていますか?
木々に囲まれている時の安堵感。稜線に出た時の解放感。山頂に着いた時の達成感。もしくは自然と対峙している時の緊張感。
山登りの魅力は人それぞれ。人によってはこれ以外にもたくさんの魅力があるし、これらすべてが魅力でもあると思います。
僕の場合も概ねどれもが当てはまりますが、後々考えてみると、後者の二つが割と大きかったように思えます。
都会とは違う環境の中、自分ではコントロールできない環境の中に身体一つで入っていく。
平日の仕事とは違う、別の領域の中での緊張感を味わいながら体力を使って挑戦し、無事降りてくる。
実際には素っ裸で入る訳ではないですし、ゴアテックスやらビブラムといった素晴らしい素材や道具たちに守られて入山するわけですが、緊張感を楽しむ自分がいたのを下山後に気づいたりしました。
いま、ぼくはその緊張感を与えてくれる山の麓、1100mの場所に住んでいます。
5月の頭に八ヶ岳の麓にある富士見町(長野県)に引っ越してから、もうすぐ3か月経とうとしています。
それまでは横浜に住んでいたのですが、その頃よく登っていた神奈川県にある丹沢の大山は1252mなので、山頂とさほど変わらないところに住んでいることになります。
週の3日だけ東京へ行って仕事をし、残りの日は富士見町の自宅で遠隔で仕事をする。働き方と暮らし方を変えようと思い立ってから約1年半、自分がよく登る山とほとんど同じ標高に、本当に住めることになるとは思ってもいませんでした。
自宅付近からは八ヶ岳と南アルプス、そして富士山を眺めることができます。
風が絶えない高原地帯なので、雲の動きは早く、山の稜線までくっきりと見える日もあれば、雲に隠れてなにも見えない日もあります。
晴れの日の日差しは山頂で感じるような強い日差しで、雨が降り出せばこれもまたいつしかの山行で味わったような激しい雨となります。
暮らし始めた家の庭に生える様々な木々や花や野草たちは、晴れていれば生き生きとして見え、雨風の中ではじっと我慢しながら耐え忍んでいるように見えます。
こうした環境の中での生活は、今まで都心で生活していた時にはなかなか味わえなかったような感覚が芽生え始めていることに気づかされます。
都会に住んでいた時は「晴れたかー、気分いいなー」、「雨かー、いやだなー」程度にしか感じなかった天気の変化も、より感情に訴えかけ、感覚が研ぎ澄まされるような心理的変化をもたらします。八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳がはっきりと見える日はとても晴れやかで穏やかな気分になる一方、辺り一面が雲に覆われ、冷たい雨が降る日は、どこか内にこもりたい気分になります。
いわば身の回りの自然環境の変化が、五感から得られる情報を増幅させるアンプのような役割を果たしているようにも感じられます。
ずっと昔から住んでいる地元の人たちからすれば、まったくナンセンスな話かもしれません。自分自身、いずれは慣れてしまい、こんな感情の変化にもまた気づかなくなってしまうのかもしれません。
でも週の3日は都心に“下山”し、また山へ戻り、3日いなかっただけで変化している草木に小さな驚きを感じながら、環境の変化の流れに身を置く。アンプを通して音圧が上がったりミュートされたりするような状況を繰り返すような生活は、自然環境に慣れ切ることなく、常に山へ入山する緊張感を思い出させながら、同時に稜線を歩くような開放感や達成感と同じような感覚を味わせてくれます。
こうした感覚の変化が、将来どんな影響を及ぼし、なにを生み出すのかはまだ分かりません。
が、少なくとも都心で暮らしながら働き、たまにしか山での感覚を味わえなかった頃にはなかった、なにかを与えてくれていることは確かだと思っています。
そんな体験や心境の変化をみなさんと共有しながら、山と都会での生活の一面をお伝えしていければと思っています。
イラストレーション:Masatoo Hirano