海に行きたい気分のときは、海沿いの低山に行く――
山ばかり行っているけれど、ときどき去来する海への憧憬。そんなとき、登山をやっててよかったなーと思うのは、海の眺めが最高の山をたくさん知っていることだったりする。下山後の疲れた足をビーチで癒すようなとっておきのコースも引き出しには多い。特にこれからの季節なら、海はもちろん美しい川が登山コースに絡むと、それだけで身心が歓喜する。つまり、海に行きたい気分のときにこそ山へ行ってみるというのは「アリ」だと思うのだ。
たとえば瀬戸内海を望む低山には、群を抜く絶景の山がそろっている。兵庫、岡山、広島、香川、愛媛それぞれに素晴らしい眺望の山やトレイルが数多くあるけれど、特に岡山の王子が岳はさまざまな条件を加味するとかないの上位ランクだ。この山は、岩の突端から海にダイブできちゃうんじゃないかってくらい海が近く、最高地点である新割山でも標高234.5mほどなので海上の様子がよくわかる。登山をしなくとも車で山上まで行くことができるので、この地域では知らない人がいない有名な景勝地でもある。
登山をするなら、もちろん海辺からスタートする。渋川港の登山口から登り始めて、行者道を下山して渋川港に戻ってくるコースが、およそ2時間ほどと手軽である。
しかし、あまりに綺麗な瀬戸内ブルーに後ろ髪をひかれてしまい、なかなか登り始めることができないかもしれない。そんなあなたは、海で心行くまで遊んでからのんびりと山へいけばいい。渋川港で群れ泳ぐ小魚を眺めて過ごしてもいいし、船の航跡波を目で追いかけながらぼんやりするのも気持ちいい。
油断はもちろん禁物だけど、このコースはとてもコンパクトで道もわかりやすいから、そう焦って早出しなくてもいいのだ。まあ、日中はめちゃめちゃ暑くなるから、その点では早朝か日中遅めに行動したいところではあるけれど。
山名由来は、ここに暮らした百済の姫の王子たち8人によるもので、そこから「王子が岳」と名が付いたという。外見は花崗岩でゴツゴツした山容をしており、どうも修験の匂いが濃い。それもそのはず、ここは熊野の修験者たちが紀伊より船で渡り来て修行を積んだ霊山でもあるのだ。その修行場に通じる行者道は、まさに吉野をルーツにする役行者――すなわち御岳の窟へと続く道でもある。したがって、いささか険しい。
渋川港から登り始めて少しずつ高度を上げていくと、鮮やかなブルーを湛える瀬戸内海に、渋川海岸の白いビーチが眩しさを増していく。強い陽射しに汗を流すハイカーなら、もれなく「あっちで泳ぎたいなー」という気分になるだろう。
山上は木々で覆われた道となり、展望はきかなくなる。しかし、陽射しを遮ってくれるし、そこへ海風がそよいだりするものだから、汗するハイカーを一時的に救ってくれる心地よいトレイルとなる。そして次第に、展望がひらけてくるのだ。
奇岩巨岩がむき出しになったところへ出ると、一気に海の展望が広がる。お向かいには香川県、遠く瀬戸大橋もよく見える。突き出した岩場から下をのぞくと、山の裾野がそのまま海に滑り落ちているのがわかるだろう。奇妙な形の花崗岩は、風雨の浸食によって独特の景観を生み出しており、まるで瑞牆山や鳳凰あたりの高山稜線を歩いているようで、しかも海がすぐ下にあるから、なんだか不思議な気分になってくるのだ。
名前を付けられた奇岩巨岩が多い山でもあり、その中でも「ニコニコ岩」にはファンが多い。西側から見るとよく目立ち、ニコニコ笑っている表情をしていて大変に愛嬌がある。稜線を振り返れば、どこからでもにこやかに見守ってくれているのだ。それが心強くも微笑ましい。岩を縫いながら歩くワクワク感とあいまって、海を望む稜線に気分はとても高まる。
ニコニコ岩から先は、海の絶佳を望む山上の道。夕陽が有名で、インスタで検索すればここを訪れた人たちの楽し気な写真がたくさん出てくるだろう。訪れる季節、そして時間帯の参考にするといい。ちなみに、ぼくのおすすめは新緑か冬。ともに夕陽の照り映える海が抜群に美しい季節で、晴れの日を狙って見に行ってほしい。
山頂の直下には、この展望を楽しむことができるレストハウスがある。涼しい顔をしてアイスコーヒーを飲む観光客を横目に、汗をだらだらと流しながらアイスコーヒーを頼む暑苦しいハイカー(ぼく)の姿は対極的で、そこになぜか猫がすり寄ってきたりして、なんともシュールな状況にくすりと笑ってしまった。
ここでしばらく過ごして夕陽を眺めてから帰ろうと思っていたけれど、なんだか下山を急ぐ気分になった。海辺も歩きたくなったのだ。猫に別れを告げて、行者道から下山して海岸に来ると、目の前には凪いだ海がやさしく広がっている。
ぼくは靴を脱ぎ、冷たい海水で足の疲れを取りながら、この日歩いた海を望む稜線のことをぼんやり想い返した。
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