荒涼とした風景の中に続くひと筋の道がある。その「道」は、日ごろ自然から離れて町に暮らす自分と、これから自然界の奥深くへと踏み込んでいく自分とをつなぐ「線」のようなもの。だからだろうか、道は見えなくなるとちょっと不安になるし、振り返って確かめられるうちは、ああ、つながっているなぁ、切れていないなぁと、気持ちが落ち着きもする。
人生という「道」も、これと同じことなのかもしれない。つい先日も、未来が見えないと不安になり、これでよかったのだろうかと過去を振り返ったばかりだ。なんというか「フリーランスあるある」である。
まあ、こういうことには終わりも正解もないのだろうから、未来と過去を結ぶその先頭たる接点に、常に「いまの自分の真ん中」があることを確かめられればOKだ。高村光太郎の『道程』を思い出そう。そう、道の先端にいつでも僕は立っているのだから。
それで、春を目の前にした平尾台は、間もなく芽吹くはずの新緑のパワーをもったいぶるかのようにため込んでいて、まるでどこかの惑星のような乾いた雰囲気が漂っているのだ。なんだか既視感すらある。地球以外の惑星に行ったことがあるわけないから、あくまでイメージなのだけれど。うーん、この風景。どこかで見たことがあるような気がするんだよなぁ……。
そんなことを思いながら、振り返っては歩いてきたその道を確かめて、汗をぬぐってはまた歩を進める。単調だけど、生きていることを確かめるかのような、その一歩一歩が尊く感じる。そうしてさえいれば、いつかゴールにたどり着くはずだ……。いやー、やっぱ山歩きっていいなぁ。
と、そんな話を登山をしない友人に話すと、きまって「なにが楽しいのかさっぱりわかんない! 疲れるだけじゃん!」とばっさり返される。うーむ、人それぞれである。みなさんはどうだろうか。
平尾台は石灰岩が風雨に浸食されてできたカルスト台地で、いくつかの山のピークがあり、ドリーネと呼ばれる窪地がところどころにある。凸と凹が共演する台地全体が天然記念物になっていて、ここを歩く人の目を足を大いに楽しませてくれるのだ。
尖った状態で露岩となった無数の石灰岩はピナクルといい、この山の特色的景観を作り出している。とにかく広大な領域のそこかしこを覆っているピナクルによって、ますます別の星にでもやってきたような気分になるのだ。
一度見たら忘れられないこの光景の中についた道を、やや高い所から見下ろす。そのとき、ふと戦闘機が飛び交うシーンが頭に浮かんだ。そうだ、スターウォーズだ! 既視感の正体はこれだった。実際に飛んでもらっては困るけれど、映画のワンシーンを思い起こして楽しい気分になってくる。羊の群れとも形容されるおびただしいピナクル群も強力な賑やかしとなり、楽しい気分を後押ししてくれる。
歩け、歩け
どんなものが出てきても
乗り越して歩け
高村光太郎の『道程』の一節を口ずさみながら、どこかの星を彷徨うごとく平尾台を徘徊する地球人、ぼく。この日は絶景の稜線から大平山、四方台を経て、貫山のピークで周防灘を堪能して“フォース”を感じた一日となった。ここもまた、もう一度歩きたい「忘れがたい道」なのだ。