今回は道ではなく“頂”のことを話そうと思う。それも、宇宙にもっとも近い(と、勝手に思っている)山頂について。
高い山の頂は非日常の極みといえる。
そこに立つだけで、とにかく感動が大きい。見たのことのない世界が目の前に、そして頭上にも広がっているから、心を揺さぶられるし、同時に心がざわつくこともある。
人の手が及んでいないから自然現象はすべて“直”に感じられ、山にいるぼくらはあまりにも非力となる。なすがままに太陽と風と雨と雪と光と闇とに翻弄される。でも、だからこそいいのだと思う。
ところが、ぼくらが日ごろ暮らす町では、自然現象を“制御”しようと試みている。当たり前といえばそうなのだが、太陽を遮り、風を防ぎ、雨と雪から守り、光を人工的に作り、闇を恐れている。地上で暮らしていくには、そうするほかないのだろう。だから、人が生活できる環境から圧倒的に遠い山のような場所では、むき出しの自然現象に“直”に触れてしまうと、本来の野生がなにかを感じて心を動かされるのかもしれない。こういう感覚を「感動」というのだろうか。
さすがに2000mを超える山は、空が近くて里が遠い。3000mともなればなおさらのことだ。山で働く人を除けば、ほとんどのハイカーにとっては、生活や仕事からもっとも遠く離れられる場所が山だろう。人生で起こる嫌なことは、だいたい生活と仕事の中に発生する。だからときどき生活や仕事の場からずっとずっと離れた山に来ると、気持ちが晴れたり、思考や悩みが整理されたり、覚悟が決まったりするのかもしれない。ぼくはまったくもってそういうタイプだから、嫌なことや悩むことがあったら、まっさきに山に行く。
で、そういうときの“すっきり度”がとても高い山のひとつに、蓼科山がある。2500mを超える山にしては、どの登山口からも比較的短時間でピストンできるのが魅力で道もわかりやすい。八ヶ岳デビューにもとてもよい山だといえるだろう。
ぼくはここの頂で過ごす時間が好きで、朝駆けして昼に温泉、ということをやる。嫌なことや悩みが、山でかく汗、湯でかく汗で、短時間でリセットされていくかのようだ。
蓼科山の山頂はとにかく広い。直径およそ100mといったところだろうか。そのすべてを岩が覆いつくしている。明らかに火山の名残だ。山の東西南北をあますことなく見渡せる絶景の大展望があって、八ヶ岳が南にむかって弓なりに聳え立つ様子は圧巻だ。南、中央、北アルプス、乗鞍に御嶽、霧ヶ峰に美ヶ原、浅間山、金峰山や両神山といった奥秩父の名峰、荒船山や御座山といった関東山地の個性的なミドル級の山々もよく見える。というか、これらの山岳展望を楽しむためには、山頂の端から端へゴツゴツした岩場を移動する必要があるため、みな山頂では忙しなく動き回っている。これがまた楽しいのだ。
岩がちの山頂のほぼ中央、わずかにくぼんだあたりに目を凝らしてみてほしい。石の祠と鳥居があることに気が付くだろう。蓼科神社の奥宮だ。数年前までは朱の鳥居だったが、いまは新しくなっている。ここに高皇産靈神という“天”を司る神が祀られている。いってみれば、天地創造の造化神だ。
山の神は天地創造、空は蒼穹、もうすぐそこに宇宙があるような感じがしてならない。ずいぶん前に登った時の写真を見返していたら、夕暮れどき、雲の中から現れた奥宮を撮ったものが出てきた。もはや地球ではない、他の星でもあるかのような景観である。
一方で、こちらの里宮は地球そのもの!といった景観だ。火山の痕跡が生々しい石の山頂と“一対”であるように、緑と水が豊かな山の裾野に坐す。車ならそう遠くはない。登山のあとに立ち寄れば、ただお詣りするだけの人とは異なって、なにか感じるものがあるかもしれない。
登山は“下りたら終了”ではもったいない。その山に関係のある場所を最後に訪れて締めくくるという楽しみ方も、見聞を広げてくれて楽しいこと間違いなしだ。蓼科神社の里宮は立科町にある。山を下り、奥宮に対する「里宮」を訪ねて帰るなんて、登山の締めくくりとしては最高だと思う。
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