南北120km、東西40kmにもおよぶ南アルプスは、9つの3000m峰が連なる赤石山脈を中心とした大山塊だ。三伏峠の北側には北岳を中心とする白峰三山と、甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳が控え、それより南側に塩見岳、荒川三山、赤石岳、聖岳、光(てかり)岳といった、緑の濃い、懐の深い山々が連なる。東の富士川、西の天竜川、中央を流れる大井川の水源となる深い谷がそれぞれの山を隔てており、まるで独立峰のような趣きだ。登山者には北アルプスほどメジャーではないにしろ、スケールの大きい南アルプスの山々も、衣食住を担いで旅をするには最適のロケーションである。
今回、計画したのは「南アでもっともスケールの大きな山歩きを楽しめる」ともいわれるコースで、南アルプス南部、椹島から赤石岳から聖岳に到り、聖平小屋から聖沢登山口へ下山する。一つ一つの山塊が大きくアップダウンもそこそこあることから、一日の行動時間を4〜7時間ほどに定め、三泊四日で歩くことにする。
駐車場から椹島へのアクセスに送迎バスを利用する兼ね合いで、どこかの山小屋で一泊しなくてはいけない。椹島をベースとするとこのルールがちょっとややこしい。こうしたアクセスの悪さもあって、北アや南ア北部に比べると入山者は圧倒的に少ない。つまり静かで、かつダイナミックな山歩きにどっぷり浸れるというわけだ。
急登が続く樹林帯を、深い谷から重い荷物を背負ってゆっくりと登る。1日目に目指す赤石小屋は標高2,563m。椹島からほぼ1,400mを登っているのに周囲は深い森に囲まれたままで、一向に眺望がよくならない。おまけに7月とは思えない酷暑だ。とはいえ、稜線に出るのに丸一日かかる雄大さこそが、この南ア南部の醍醐味。我慢大会のような登りも、一歩一歩踏みしめて歩けば目指す高みはいつか近づいてくるのだ。
二日目、暑さをしのぐため4時半にはテント場を出て歩き始める。富士見平を過ぎたあたりからようやく視界が開けてくる。振り返れば雲海をたなびかせた富士山が浮かび上がる。足元にポツポツとカラフルな花が見られるようになると、ようやくモチベーションも上がってくる。稜線まできた!という開放感だ。赤石岳頂上からは、はるか彼方に聖岳が。荷物の重さと暑さもあって、あそこまで歩くのかと思うと一瞬、気持ちがくじけそうになった。
この時期の南アルプスのお楽しみといえば、高山植物が広範囲で咲いている「お花畑」にある。南アは氷河時代に造られた氷河地形(カール地形)の南限と言われ、こうした地形の特徴に対応した高山植物が群生しているのだ。南ア最高峰の北岳は固有種のキタダケソウがあることから花好きに人気が高いが、ハクサンイチゲやミヤマダイコンソウが咲き乱れる赤石岳の北沢カールだって見事なもの。
南アルプスを代表する高山植物のひとつ、マツムシソウにはミツバチが群れていてなんとも可憐である。南アルプスはかつて高山植物の植生の豊かさで知られていたが、1990年代後半から急激に増えたニホンジカの影響によりお花畑が激減してしまったという。3日目に登場する聖平や薊畑には防鹿柵を設置して植生の回復に努めているが、その内側と外側の植物の種類や数の違いは明らか。ニホンジカだけてなく登山者それぞれが自然にダメージを与えない山の歩き方を考えなくてはと思わされた。
さて、今回の旅にチョイスしたのは、ちょうど旬を迎えている桃を使ったブランデー、「プレスクヴァ」。英語ではピーチブランデーというが、フランス語ではオー・ド・ヴィー(=生命の水。ラテン語で「生命の水」を意味するアクアヴィテが語源になっている)。
この「プレスクヴァ」の原産地であるモンテネグロを含むバルカン半島一帯では、これをラキアと呼んでいる。ラキアというのは、発酵させたフルーツから造る現地の蒸留酒のことで、日本の梅酒のように各家庭で仕込まれている国民酒だ。桃やスモモ、ブドウ、アンズ、リンゴ、ナシ、さくらんぼあたりが一般的で、ハーブやはちみつを使ったものもある。桃やさくらんぼ、はちみつあたりは甘みがあって飲みやすい。
モンテネグロと同じ旧ユーゴ圏であるクロアチアを取材したことがあるのだが、現地の一般家庭を訪れるとだいたい自家製のラキアでもてなしてくれた。それがたとえ朝ごはんの席でも当たり前のようにラキアのボトルと素朴なコップがずらりと並び、席についたら「Zivjeli(=乾杯)!」となる。アルコール度数は、市販のもので40度ほど、自家製は50度を越すものもあるというから、割と手強い。が、サイボーグ並みのアルコール耐性を持つ彼らはストレートでガンガン、グラスを空ける。なので真面目に付き合うとひどい目にあう。そんな教訓も、ラキアにまつわるいい思い出だ。
そんな桃のラキアをボトルごとザックに挿して歩いていたものだから、大抵、何を持っているのかとお酒好きに声をかけられる。まずは赤石避難小屋の名物、山ヤ風情が漂うご主人、榎田さん。「山へ登れ、酒を飲め」と私たちを励ましてくれる榎田さんと、頂上直下の大絶景を肴にちびちび。「朝からこれじゃあ、仕事をする気が失せるよな」というお褒めの言葉もいただいた。
次に声をかけてくれたのは、岡山からきたという壮年の二人組み。赤石岳から聖平までの三日間、テント場で一緒になった。岡山は桃の産地ということで桃のブランデーをことのほか喜んでくれた。「プレスクヴァ」を飲みながら、お互いの山行についておしゃべりをする。彼らは椹島から荒川三山経由で赤石、聖、茶臼から光まで行くというから、結構な大縦走だ。お酒というのは、テント場や山小屋で出会った人と仲良くなるきっかけをくれる、素敵な飛び道具なのだ。
ハイライトの三日目、今日も晴天。百間洞を出て中盛丸山から兎岳へ、そしていよいよ、南ア最南端の3,000m峰、聖岳へ向かう。兎岳は360度の大展望で、振り返れば今日まで歩いてきた道のりを自分の目でたどることができる。富士山の眺望もなかなかのもの。兎岳を聖兎へ下り、そこから一気に前聖岳へ400mの登り返しだ。
三日目になると荷物の重さにも慣れてきて、登りはそこまで辛くない。ようやく踏んだ頂上でひととき横になり、達成感を味わう。前聖岳は西側だけが霧に包まれていて、小聖岳へ下りは霧の中を下らなくてはならなさそうだ。小聖までのザレた下りをヒーヒー言いながら下り、薊畑の見事なお花畑に出迎えられ、ようやく最後の泊地、聖平へ。テント場の受付を済ますと、小屋の方からサービスのフルーツポンチが振る舞われた。紙コップについで渡してもらったフルーツポンチは、どんなお酒よりも五臓六腑に染み渡った。
最終日も快晴。下るほどに蒸し暑くなり、下界に降りるんだと実感する。赤石岳の急坂でへこたれそうになったことも忘れ、頭の中ではすでに次の旅を夢想し始めている。