「そのTシャツ、可愛いですね~」
約2年前、私のこの一言からはじまった。
院長がよく着ている色鮮やかな長袖のTシャツが気になって仕方なかった。
60代後半になる院長、サーモンピンクやレモンイエローなど、若者が着ていそうなお色が実によくお似合いで。そういえばいつも履いているパンツも、上着も、センスがいい。
聞いてみると、すべて登山用とのこと。動きやすく機能的で、仕事着には最適だという。
可愛いTシャツは鍋割山で買えるということで、それを目当てに軽い気持ちで山へ行くことになった。
院長は日本の主要な山にはだいたい登った経験があるとのこと。山泊、雪山も数多くこなしてきたベテラン。一方、私はというと……岐阜の出身にもかかわらず、山の経験はほぼ皆無。近所の低山とも言えない丘のようなところへは、よく家族でハイキングには行っていた。
けれども、自然豊かな土地でのびのびと育ったため、山へ行くことに全く抵抗はなかった。
2016年5月1日、天気は気持ちいいほどの快晴。
院長の声掛けにより、院長の奥様、鍼灸師、小学生のお子さんを合わせて9名が集まった。
この日のために新品の登山靴も手に入れた。
山へ行くこと自体に、たしかに抵抗はなかった。
しかし、集団行動ができない、子どもが怖い、人見知り、口下手・・・。
私には、苦手なものが多い。(子どもが苦手なのは、昔保育園で子どもに手がちぎれるほど噛まれたことがあり、もはや犬と変わらないと思っている)
登る前からこんなことで大丈夫なのだろうかと思った。
でも来てしまった以上、戻ることはできない。
いざ、鍋割山へ!
山頂へ着く前に、早めのお昼ご飯。
私は当然のようにコロッケおにぎり(コロッケをごはんで包むだけ、ボリューム満点)
を食べていたのだけど、
鍼灸師の先輩はなにやら見たことのない器具を取り出し、お湯を温めはじめる。
リュックの中からカップラーメンが出てくる。まさか!そんなことって。
お子さま二人と私は、興味津々でその工程を見つめる。
お湯が沸騰する、歓声が上がる。これは感動もの。
しかし私以外の大人たちは、いたって平常心。これは山では普通のことらしい。
恥ずかしい、だけど初めて目にしたら、誰だって興奮する。
昔は遠足で冷えたおにぎりを食べるのが普通だったのに、そんな時代はいつの間にか終わった。
これだけでは終わらない。食後に熱々のコーヒーまで淹れてくださった。
その美味しさといったら……。
山でいただくものは、たとえ冷えたおにぎりでもいつもの倍は美味しく感じる。
しかし、丁寧に淹れた出来立てのコーヒーは、山で飲むために存在しているのではないかと思うほど、味わい深い。なぜなんだろう。
なんとなく、その場が和む、皆の顔が緩む。
共に感動したお子さまたちとの距離が、気のせいかほんの少し近づいたように思う。
体力には少し自信があった。普段からランニングを日課にしていて、フルマラソンも走った。しかし、そんな自信は崩れ落ちそうになる。
登山とランニングでは使う筋肉が違うんだと思った。ランニングは持久力さえあればなんとかなるが、山ではそうはいかない。
登りがきつくなり、自分はこんなにも筋力がなかったのかと思うほど、足がしんどくなる。
それに加えて足の外反母趾が久々にジワジワ痛んでくる。靴はしっかり合うものを選んだはずなのに。息も切れてくる。苦しい。
そんなとき、足元にあるものを見つけた。
可憐に、懸命に咲く小さなお花。
昔東北の被災地へ行ったとき、何もかも流された町の中で、
たった一輪だけ立派に咲くひまわりを目にしたことを思い出す。
この子も、苦しい中でひとり頑張っているのかな、なんて勝手に思い込む。
そう思うと、こんなことでへこたれちゃだめだと前を向く気持ちになる。
どこまでも続く道がある。立派な木は、倒れてしまってもその逞しさに魅了される。
なんだか元気が出てくる。
27年しか生きていない私だけれど、それなりに困難を乗り越えてきた。
涙を流す日も、生きていたくないと本気で考えたこともある。
だけど、生きていたら素晴らしい出会いや経験に必ず巡りあう。
人は皆、他人には言えない悩み苦しみを抱えながら、それでも生き続ける。
こうやって登り坂もあれば下り坂もあって、いつも平坦な道なんてない。
山登りは人生みたいだと思った。
黙って山道を歩き、ときどき仲間と言葉を交わす。
山では、無理をして話さなくても許される空気があって、でも話し始めると深い会話ができたりする。不思議だ。
そして、最後の山場を越えついに。
頂上の景色は、これまでの疲れを吹き飛ばしてくれるものだった。
鍋割山よりも、もっと高く素晴らしい景色の山は数えきれないほどある。
だけど、このときの私にとって、初やまである鍋割山は世界で一番綺麗だと思った。
これを見るためなら少しくらいの痛みや苦しみなんて我慢できる。
そして、自分はなんてちっぽけな存在なのだろうと自然の偉大さを噛みしめていた。
それと同時に、
お子さまたちと、かなりお近づきになれたのは驚きだった。
山では自然体に、子どものようになれるからか、ただ単に、私がいつの間にか大人になって、子どもとの接し方を覚えたのか。
お子さまから見たら、よく分からない姉ちゃんだけど、かわいそうだからと気を遣って仲良くしてくれたのかもしれない。
とにかく、山頂にたどり着いて、普段は感じることのできない幸福感で満たされたのには変わりない。
もともと感動しやすい性格ではあるけれど、山へ来るとより感受性が高まり、美しいものを見て素直に美しいと感じることができる。
小さな感動に出会わせてくれて、自然のありがたさに気付かせてくれて、ありがとう。
想い出の鍋割山、必ずまた来させてください。
山に登って、こんなにも自分の心が動かされるなんて思ってもみなかった。
山は、私にとって、心を癒し、鍛える場所。
山へ行くと、安心感に包まれて、ここにずっといたい、と思う。
外の情報が一切入らない環境で、自分自身の内と向き合うことで、気づくことがある。
院長は、言う。
「山を登ることは、自分の至らなさに気づくこと」だと。
それは、山という壮大な相手に敵うことは到底できず、人は謙虚にならざるをえないということ。と同時に、自分と、自然と、真正面から向き合うことで、人間にとって本当に大切なものはなにか、という本質的な考えを持たせてくれる、という意味もあるのかなあと思う。
そして、もうひとつ。
院長の、子どものようにはしゃぐ姿、満面の笑み。
皆が、普段は見せない笑顔を山では見せているような気がした。
山という大自然の中では、人は自然体に近づけるのかなあと思ったりする。
その人のありのままの姿が見える。苦しいときどうするか、どう立ち向かうか。
院長は、男性を見極めるには一緒に山に行くことだ、と力説する。
私も、いつか大切な人と山へ行きたい。
朝から疲れ切った顔をして、決められた制服を着て、息ができないほどの満員電車に乗り、毎日を惰性でやり過ごす。
こんな光景を遠い昔に目にして、私はこうはならない、と思った。
仕事はつまらない、かったるい、仕事とはそういうもの、なんて誰が決めたんだろう、
とも思った。
大学生のとき就活で初めて東京の街へ出てきて、空の狭さに驚いた。
立派に建てられた高層ビルを見て、圧迫感と閉塞感しか感じられず、息苦しくて仕方なかった。
山に行けば、空はこんなにも広いものだったのだと気づく。
物が増え、技術は向上していき、世の中はどんどん便利になっているはずなのに、人の心は豊かにならず、おかしな病気は増え続ける。
不便な生活の中にある、ささやかなシアワセ、小さな感動。そんなものは忘れ去られてしまいつつあるのかもしれない。
山に行けば、スッと肩の荷が下り、身体も心もリセットされる。
当たり前だと思っていたことが、当たり前なんかじゃなくて、奇跡の連続なんだと気付かされる。
鍼灸師の先輩が、「山にはいい気が集まっている、山へ行くといい治療ができるよ」と教えてくれた。
山には本当に人の心を変える力があるらしく、精神科でリハビリ登山が行われていたり、心のケア合宿というカウンセリング、ヨガ、鍼灸がセットになった富士山でのイベントもあったりする。
あれから完全に山の虜になり、プライベートで登山やトレランを楽しんでいる。
山へ行く体力をつけるために月100kmのランを継続するほどになった。
でもそれだけではあまりにももったいない気がしている。
今妄想の中で考えているのは、山小屋で治療をするというスタイル。山小屋で過ごす時間を、少しだけ自分の身体を労わり癒すために使うのもありなんじゃないかと思う。
治療される側、する側、どちらにとっても非常にいい環境である。
もうひとつは、山、もしくは山の近くでカフェと治療院を併設する、という壮大な夢。
夢だけど、思っているだけでは何も始まらないから思い切って発信してみた。
今の課題は、団体行動、大人数の環境に慣れること。笑
昔からひとりで行動するのが好きで、どこでもひとりで飛んでいってしまう。
先日も奥武蔵にひとりトレランへ行ったのだが、危うく遭難するところだった。
人とのかかわりは、危険を避けるためだけではない。
山を楽しむだけなら、きっとひとりでも大丈夫。(みんなで行った方が楽しいのかもしれないけれど、まだその楽しみ方が分かっていない)
山と関わって働き、生きていくためには人との関わりが不可欠だと思う。
これからどうやって関わっていこうか、考えるのも楽しかったりする。
不安もあるけれど。
私は、ずっと山を想って生きていきたい。