古事記で語られる日本の成り立ちに、国産み神話があります。イザナギとイザナミの二柱の神が、天浮橋に立って下を見下ろし、天沼矛(あめのぬぼこ)でかき回す。すると、矛を引き上げた際に滴り落ちた潮が凝り固まり、島となったという話。それこそが、いまの淡路島だとされています。しかし注目したいのは、その南にある小さな島、沼島。この島も、おなじく“最初の島”といわれており、これだけで文系的には歩いてたくなる島です。
淡路島の南にある土生港(はぶこう)から、日に10往復の船に乗ること約10分。静かな漁港に降り立つと、島の人か、釣りに訪れた人か、淡路島に向かって釣り糸を垂れている光景に、なにか懐かしさを感じます。
宮城で育ったぼくにとって、釣りができる港は原風景のひとつ。山に入る最初の炊けインも、実は渓流釣りでした。山奥に入れば入るほど大物がいる・・・そんな気持ちでイワナやヤマメを狙いに通い、後に海釣りまで手を広げたのでした。
船が戻る先に視線をやると、淡路島最高峰の諭鶴羽山が見えています。あの頂からこの島を眺めると、勾玉の形をしていることがわかるのですが、ぼくが登った時は天候が悪く、よい写真が撮れませんでした。諭鶴羽山も“文系”な話題に富む低山なので、いずれ触れたいと思います。
案内板には、小さな島ながら見どころや景勝地がたくさんあることがわかりますが、中でも重要な場所が「おのころ神社」。冒頭で触れた“国産み”によって、神さまが作り出した最初の島をオノコロ島といいます。「自ずから凝り固まってできた島」の意味で、自凝島とも表記されるその証に、この「おのころ神社」の存在が挙げられるわけです。
港からは「おのころさん」と呼ばれる神体山が見えます。あの山域がすなわちご神域で、よく見るとおのころ神社の社がこちらに向いているのがわかります。
港を抜けて「おのころさん」の方へ歩くとすぐ、おのころ神社への案内版が現れます。石段を登りつめると、そこが神の社。イザナギ・イザナミの像が迎えてくれます。振り返れば、さきほどの港を一望できるよい眺め。ここから島の入口を見守っているかのよう。
麓に下りると、あらためて島の風景が長閑で、故郷を思わせる雰囲気に気持ちがリラックス。視野も広がり、町のさまざまな表情が見えてきます。
ところで、司馬遼太郎が書いた小説「菜の花の沖」をご存じでしょうか。NHKでドラマ化されたこともあるので、そちらで知っている人もいるでしょう。江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛の物語で、“沼島衆”の水夫としての高い航海技術に触れています。この島が海と共にあったことを偲ばせてくれることを示す一文を刻んだ石碑が町の中にあるので、ぜひ探してみてください。
神話の魅力だけではなく、時代小説から紐解く魅力もある沼島。源頼朝と奥州藤原氏、豊臣秀吉と賤ヶ岳、神宮寺と庭園の関係など、ここでは触れていない魅力がまだまだある島です。自分の“文系”な視点で、ぜひ沼島を歩いてみてください。